仏法雑談(第一部)
第十三章 証果と明心篇
一、実は、至る所に、目に映る青山に荒れ草はない。一つの葉や茎、一本の草、一縷の糸、実際があって虚しさはないが、跡がない。何度も何度も探し求めて、突然振り返ると、灯火が薄暗く、至る所に、どこがそうではないだろうか。以前は心も目も盲目で、今では目いっぱい金色の光だ。これは悟りを得た者の感慨である。
証果と明心の条件が揃えば、縁に遭遇した時、どんな縁であれ、証果と明心ができる。仏が法を説いているのを見つけたら、更に証果と明心見性ができる。仏の威徳と加持力は非常に大きく、仏が法を説く法会の磁場効果も相当に大きい。しかも仏の世の修行者は一般的に甚深な禅定を持ち、心地が清浄で、出離心があり、煩悩が軽微で、善根福德が深厚で、だから法を聞くと、仏の音声に従って観行思惟ができ、直ちに証果と明心ができる。
私たち末法時代の衆生は仏の世の衆生の根機に比べることができない。善根が薄く、福が少なく、内心が浮ついており、大部分の人が禅定を持っていない。仏法がどんなに細かくても、心に入ることができない。だから、本当の実証で果位を得ることができず、せいぜい理解するだけで、それでも良い方だ。正に衆生が一般的に禅定を持っていない、禅定を備えることができないので、禅定を修めずに直接仏法を観行できるという説が出てきた。しかし、禅定がなければ、どうして観行能力があるのか。何を観行できるのか。どれだけの時間観行できるのか。どれだけの程度まで観行できるのか。各人自身で試してみることができる。禅定がある前の観行と、禅定がある後の観行、その効果の差はどれほど大きいか。言うまでもなく、差が大きすぎる。本質的には同じではない。
一つの法義に対して、禅定がある時の思惟と、禅定がない時の思惟は、天と地の差である。だから、多くの人が仏法を思惟しても、本当に理解することができず、誤解が多すぎ、本当の意味を理解することができない。実際に証得し、現量で観行するには、本当にとても難しい。それでも、多くの人が自分自身の理解力を信じており、ともすれば一節の経文を引用して、自分自身の見解を証明する。実際には、経文の意味と自分自身の見解は一致しておらず、自分自身が多くの誤解をしているのに、自覚していない。
多くの経典を研究する人は、本当に経典の本当の義理を如実に理解して透徹していないのに、自分自身が有能だと思っている。実際には、仏法は研究するだけでは研究できるものではなく、必ず甚深な禅定の中で、理にかなって思惟、観行、参究しなければ、本当に理解し、本当に実証することができず、研究だけでは実証できない。
一部の人は、多くの場合、仏経に記載されているように、衆生が仏が法を説いているとき、直ちに証果と明心したと見る。それらの人も禅定を修めていないのに、直接証果したように見える。まるで、法を聞けば、少し思惟するだけで証果できるように、特に定を修める必要がないように思える。この誤解は相当に大きい。法を聞いて直ちに証果した人たちが、既に禅定を備え、善根福德が深厚で、ただ縁が不足していただけで、仏が法を説くという最も殊勝な縁に遭遇したら、もちろん非常に容易に証果と明心見性ができることを知らない。
これらの人は、証果した人の最後の結果しか見ることができず、証果した人がどれだけ長い修行の道程を歩んできたのか、仏が法を説く前にどんなに精進したのか、どんな心を発し、行持したのか、どんなに一生懸命に禅定を修めたのかを見ない。これらの必要条件を無視し、専門的に最後の証果という部分だけを切り取る。これは最も深刻な断章取義である。
現代人は浮ついており、近道を行きたがり、できるだけ簡単で直接的であることが望ましい。仏が歩んだ道を歩きたがらず、自分自身の方法が仏よりも実用的で、直接的で、そんなに苦労しなくてもいいと思う。まさか凡夫が仏よりも優れており、仏よりも智慧があると言うのか。仏の修行は回り道をしているが、自分自身の歩む道は最も直接的で、基礎を築く必要がなく、いかなる代価も払わなくてもいい、苦労して定を修め、自心を降伏する必要がなく、研究するだけで大きな成果を収めることができると言うのか。研究で得た果は紙で作られたもので、風に吹かれると散ってしまい、火に触れると溶けてしまう。今の世間では、偽の果が多すぎ、大根の印鑑で押されたものが多く、風や草の揺れに耐えられず、死んだ後の果報は自ら知ることになる。
衆生は無明と業力の違いにより、異なる果報を招き、異なる色身の正報と生存環境の依報を持つ。業報が終わると、別の業報に入る。業報が違うため、色身が違い、脳の組織構造が違い、現れる智慧が違い、行為表現が違う。
二、悟る前にはできるだけ業を消した方がよい。悟った後に、業力に圧倒され、転落して、無駄に悟っただけにならないようにするためである。悟りを開く時に福德が不足していると、一旦悟ると、業障がすぐに現れ、様々な魔障の干渉が現れる。定力が更に不足していると、引きずり下がり、戻ってしまい、道心を失う。たとえ道を退かなくても、色身や各方面の変化が大きく、受けるべき圧力が小さくない。
悟りを開くには、着実に、自然に成し遂げるのが最善で、各方面の条件が揃っていなく、福德が欠けている状態で、焦って悟ろうとすると、非常に無理に悟ったとしても、魔障が続々とやってきて、一般的な人は耐えることができない。最も恐ろしいのは、強大な圧力の下で道を退き、再び戻ってくるのがいつになるか分からないことである。普段は福を多く修め、業を多く消し、懺悔を多くし、福を少なく享受するべきである。重要な時に、福德が支え、願力が大きい人は願力が支え、仏菩薩と護法神が護持して、困難を乗り越えることができる。
三、我見を断つことは第六住位で、明心は第七住位で、我見を断続しなければ、明心はできない。我見を断続せずに明心した場合、二つの我が現れ、慢心が深く、大きな混乱が起こる。
五蘊の私の虚妄を証得しないで、どうして無我に応じることができるのか。証得せずに応じていると感じるのは、意識による独断で、根拠がなく、情思意解に属する。意識の錯覚は、正に我性の現れで、自分自身と実情を理解していないため、自分自身に高帽子を被せる。多くの人がこのようで、何の法も証得していないのに、自分自身の心が空になった、四相がなくなった、夢幻のようになった、涅槃に近づいた、有相戒を修める必要がなく、心地戒を修め始めたなどと思い、すぐに偉そうになる。これは仏法の修証に対する大きな誤解である。
四、法身を生きるためには、五陰が私であるという邪念を消滅させ、五陰の私を立てないようにする。そうすれば、法身が見つけやすくなる。しかし、法身を探す過程で参究の念頭があり、世俗法の貪嗔痴の念頭を抑えるような努力をし、いつか法身が見えるようになる。
しかし、参究の過程を経ない悟りが、果たして悟りと見なせるのか、果たしてどのような結果になるのか、仏が言っても決定できず、因果と閻魔が決める。死神が最も問題を説明でき、権利が最大である。もし、自分自身が証果明心した人で、聖人であることを非常に望み、事実の真相を顧みず、これはやはり深刻な私で、私は必ず如何なる状態であるというのは、これが私である。もし本当に我見を断ち、無我になり、本当に明心し、五蘊が空であることを証得したら、自分自身の解脱した心を十分に表現すべきで、自分自身がどんな果位であるか、どんな果があるかは重要でなく、関係がない。無我になれば果もなく、私があるからこそ果がある。
ある人は、我見を断つことと明心とも初果で、初果は煩悩を断ち切っていない、煩悩は凡夫と同じで、解脱の功德はないと言う。では、我見を断つことと、我見を断たないこととの違いは何か。初果を証得しても、少しも解脱の功德の受用がなく、明心して如来藏を証得しても、少しも解脱の功德の受用がなく、凡夫と同じである。では、果德とは何か。すべての果には德があり、証果した後、果德がないと、それはただの名称、名相に過ぎず、意味がない。この名称は仮に仏が与えたとしても、本来の不生不滅のものではないから、実質的な意味がない。しかし、実証と妄語には、それぞれ因果がある。
本当に修道を始めるとき、既に一定の功德の受用があり、三十七道品を修める過程で、程度の差はあるが、功德の受用がある。ただ、その時は解脱の功德の受用はなく、我見を断たなければ解脱はないからである。しかし、我見を断ち、明心した後、程度の差はあるが、解脱の功德がある。初果には初果の解脱德があり、二果には二果の解脱德があり、三果には三果の解脱德があり、四果には四果の解脱德がある。煩悩を断つことは三果以降のことであるが、初果の人の煩悩と凡夫の煩悩は大きな違いがあり、仏を学ぶ人が修道の過程で、修道を始めていない人と比べて、煩悩にも一定の違いがある。でなければ、仏を学ぶ修行は何の役にも立たない。
多くの人が果を好きで、なぜ果が好きなのに、事実に重きを置かないのか。深刻な私と我執が原因である。仮に仏がわざわざ果を与えても、自分自身の德とこの果が応じていない、事実上、本当に証果していないのに、自分自身がこの果を非常に気にし、執着することも我見と我執で、依然として私である。このように、偽の果を得て、心から喜び、至る所で宣伝し、威勢を張ることは、我性が依然として重いことを示し、生死を超えることができず、これを自欺欺人と言う。
本当の修行者は、果には目を向けず、内心が変化したかどうか、本当に解脱したかどうか、修行による功德の受用があるかどうかを重視すべきである。もし本当に功德の受用があれば、仏が証書を与えなくても、すべての人が自分自身が果を得たことを認めなくても、実際には自分自身には果と解脱の証量があり、解脱できる。逆に、もし自分自身には功德の受用がなく、本当の解脱の証量がなければ、仏が証書を与えて、すべての人が自分自身を大德、羅漢、菩薩として敬うとしても、実際には自分自身は依然として凡夫で、依然として生死の業障の中にいる。
各人が仏を学ぶ修行を求めるのは、本当の解脱、本当の道業で、虚栄ではない。虚栄なものは信頼できず、もたらすのは依然として虚栄で、石鹸の泡のようなものである。私たちは石鹸の泡が美しいと見なさず、泡の影を好まず、実際を求め、真実を得るべきである。言うは易しく、実際に行うのは難しい。証果のブームが過ぎ去って初めて、仏教界が実務に取り組むことができる。現在は猛烈に果と栄耀を追求する時期で、本当の修行者は遇えにくい。繁栄が去り、真実が現れる。
五、二乗の行者は、既に見道した行者と未だ見道していない行者に分かれる。既に見道した行者は、五陰十八界の生滅変異に真実性がなく、私の主宰性がないことを証得し、無我三昧を証得し、四相を破り、我相、人相、衆生相、寿者相がなく、法眼浄を得た。そのため、心中で四相に対して空で不実な感覚があり、人我四相における有為法がますます少なくなる。道共戒のため、内心で自然に贪欲が軽減し、人我是非が軽減し、煩悩を降伏できる。初禅定を修め出した後、煩悩が断ち切られ、贪欲と嗔恚の煩悩が滅尽し、この時、異性と接触しても愛欲心がなく、内心は自在無碍である。しかし、出家の戒律があるため、衆生に模範を示すため、また衆生に誤解されないように、三果、四果の人は言葉や行動、挙止において戒律を守り、規範に合致し、内心は拘束されていない。
出家人は衆生の依止であり、外見上、威儀を重んじなければならない。衆生が見ると、三宝に対して恭敬心を生じ、善根を植えることができる。仏の世において、世尊が僧団を創設したのは、一つは衆生が世俗を離れて解脱するため、二つは衆生の依止となり、衆生を導いて世俗を離れ、三宝に帰依し、解脱の種子を植えるためである。各出家人は、見道しているかどうかに関係なく、身をもって則し、戒律を模范的に守り、言葉や行動が規範に合致し、威儀を備える。彼らが托鉢乞食をするとき、接触する衆生が多いので、更に威儀を備えなければならず、衆生に笑われ、悪業を造り、悪果報を得ることがないようにする。だから、彼らが乞食するとき、道を歩きながら、頭を下げ、目を前の道に向け、左右を見回さず、横目でも見ない。前の人々をまっすぐ見上げることもなく、齋主に出会っても、もちろん男女や美醜を区別せず、鉢に飯を受け取るとすぐに引き返し、挨拶の言葉はない。行者たちは一心に生死を解脱しようとしているから、心は六塵の境界や世俗に向けられておらず、こうして道を証得し、世俗の五欲六塵に縛られないようにできる。
声聞人は三果以降、煩悩は断ち切るのであって、伏除ではない。断ち切るからこそ、五欲六塵に縛られず、三界を離脱し、解脱できる。煩悩を伏除するとは、煩悩を抑えることで、二果以前、特に見道以前に煩悩を降伏し、三果で煩悩を断ち切る。伏除では煩悩から離脱できず、解脱できない。
大乗菩薩の修行も、声聞行者の行いから離れることができない。小乗の修行を離れると、菩薩とは言えず、凡夫に過ぎない。菩薩は最初、個人の修道の過程でも、声聞人と同じように、戒律を守り、威儀を備え、衆生の模範となる。戒律を守ることで、禅定を得て、見道できる。菩薩も小乗で我見を断つことから修行を始め、証果しなければ、大乗で見道できない。小乗の戒定慧と見道で法眼浄を得ることは、大乗菩薩が越えることができない。そうでなければ、大乗菩薩も小乗行者も存在しない。
菩薩たちは小乗で見道して初果を証得した後、引き続き初禅定を加修し、五下分結、三縛結に加えて贪欲と嗔恚の煩悩を断ち切る。そして初めて大乗法で禅宗の三関を通過し、陽炎関と如夢観を経て、初地に入る資格がある。初地に入った後、わざと煩悩を尽くさず、阿羅漢のような正性離生をとらず、つまり四果阿羅漢の果位を証取しない。極めて小さな煩悩を残し続けることで、無余涅槃に入らないようにする。無余涅槃に入ると、仏種が断たれる。
菩薩がどんなに急いで悟りを開こうとしても、小乗の各関口を越えることはできない。もしわざと越えようとするなら、この人は本当の修行者ではなく、大乗菩薩とは言えない。四相と煩悩を備える菩薩は、菩薩ではなく、凡夫と同じである。もし菩薩が悟りを急がせる心行を持つなら、この心は有所求の心で、無為心ではない。私的な目的の心は、必ず四相があり、煩悩があり、それは凡夫心である。凡夫心に応じると、本当の菩薩になれない。本当の菩薩は必ず相を破る菩薩で、我相、人相、衆生相、寿者相がなく、証果相や悟り相もない。これらの相を持つ者は、凡夫である。
六、我見を断つことが先で、明心がその後
一切法の修証は、最初は身見を降伏し、身見を断つことから始まる。衆生が無始劫以来、最初に仏法に触れたとき、五陰の色陰を認識することから始まり、どれだけの劫を修めたか分からないが、善根福德が深厚になって初めて大乗菩薩法に触れ、徐々に自身の中に真心如来藏が自分自身の本心であることを認識する。しかし、この時もまだ身見と我見を降伏しておらず、ましてや断つことはない。
我見を断つことが明心よりも前であることから、それは菩薩の七住位以前で、我見の仮我が倒れた後、真心が発見される。この時、明心は住位の第七住の果位である。だから、必ず我見を断つことが先で、真心を証得することが後である。大乗菩薩が参禅しても、参究の過程でも、徐々に身見と我見を降伏し、更に身見と我見を断つ。明心した後、身見と我見がまだ残っているという道理はない。もしこのような現象が存在すると、この人は明心しておらず、本当の参禅の段階を経ておらず、深い参究もしておらず、彼の果位は少し怪しい、または来歴が不明である。
七、どこで業を造るか、そこで誠心誠意に懺悔し、再び犯さないと誓う。どれだけの人の前で業を造ったか、それだけの人の前で誠心誠意に懺悔する。もし悪業の影響が非常に大きく、学法が相当な程度に達している場合、実相懺悔を行うことができる。実相懺悔は二種類に分かれる。一つは小乗の無生理懺悔で、定中で五陰の不真実性、五陰によって造作される身口意の業行の不真実性を観察し、初果または初果向を証得し、法眼浄を得ると懺悔が清浄になる。
もう一つは大乗法の如来藏無生理懺悔で、先ほどの身口意行がどのように現れたかを観行し、最後に自分自身の身口意行がすべて如来藏から少しずつ生まれ、身口意行に真実性がなく、五陰が虚妄で、五陰に依拠している身口意行も虚妄であることを証得し、業が消える。もちろん、未到地定を備えて初めて、如来藏を実証する希望があり、その後に初めて身口意がどのように如来藏から生まれるのかを観察できる。仏法を一旦証得すると、三悪道の業がすべて消え、無始劫以来の三悪道の罪業も含まれる。しかし、これは非常に容易ではなく、相当に良い善根、福德、禅定、智慧、および縁が必要である。
八、定力と福德が不足していると、無理やり明心しても、以後の進歩が非常に遅くなる。定が不足して明心した場合、覚明の時間が非常に短く、後続の禅定が生じにくく、貪嗔痴の煩悩が軽減しにくい。定力が不足しているため、観行の智慧も生じにくく、多くの法が観行できない。証果と明心は、必ず極めて良い定力の下で得なければならず、そうすれば禅定が急速に生じ、この機会を利用して、間もなく初禅まで修めることができる。この時期を過ぎると、初禅定が生じにくく、二果、三果が得にくく、禅宗の二関、三関が越えにくく、そうなると、今世に初地に入る望みがなくなる。
九、禅宗の三関は、智慧が進歩する関口である。第一関は如来藏を証すること、第二関は如来藏性、つまり佛性を見ることで、六塵において如来藏が起こす作用を見ることができる。第三関は牢関で、この関を越えると、生死という大事が解決でき、涅槃に入る能力がある。禅宗の参禅が終了した後、更に下に行くと方広唯識を学ぶ。
禅宗の証悟時は小乗の初果に相当し、第三関は小乗の三果、四果に相当する。大乗果を取ると同時に小乗果があり、小乗果を証すると、必ずしも大乗果があるわけではない。これは大乗が小乗を包含していることを示す。阿羅漢が見る空は、人我の空で、五陰十八界が空で、私(我)ではないことを知っているが、まだ如来藏を証得していない。菩薩が見る空は、如来藏が真実で、空性心であることを証得し、同時に如来藏が生み出す五陰十八界法が空であることを知っている。両者とも空を証するが、内容は完全に同じではない。
十、煩悩垢と染污垢は、我見を断つか、明心見性した後に初めて修断できる。それ以前は、煩悩を抑えるだけで、表面的には現れないが、実際には煩悩が隠れている。我見を断つか、明心見性した後、五陰が本当に真実の私(我)ではないことを知ると、内心の私(我)が緩み、禅定が現れ、徐々に深まる。初禅定を修め出した後、貪嗔痴の煩悩が一つずつ断ち切られ、意根が自我に対する執着が少しずつ消滅し、心地の煩悩垢が取り除かれると、心が清浄になる。
我見を断った後、五陰十八界法がすべて虚妄であることを知ると、以後、参禅して真心を証するとき、虚妄法をもはや真実と見なさなくなり、最も重要なのは、意識心の様々な細相を第八識として悟ることがなく、誤悟しなくなる。第八識を見つけると、それが生滅するものかどうか、十八界の中の法かどうか、変異性があるかどうか、無常性があるかどうかを観察でき、それが本当に永遠に変わらない真実で、七つの識の体性と大きく異なることを発見できる。また、第八識がどのように五陰を生み出し、五陰と七識とがどのように協力して万法を生み出すかを観察できる。こうして、この心が第八識真心であることを確認でき、これが本当の明心証悟である。
我見を断つ瞬間、煩悩を一気に断ち切れるかどうかは、必ずしもそうではない。我見を断つ前の煩悩の降伏程度と禅定の修行程度による。もし煩悩がまだ非常に重く、いつも現行しようとし、定力がまた良くない場合、煩悩を断ち切るには一定の日数が必要で、だから、煩悩を断ち切る時間の長短は人によって異なり、一概には言えない。世尊が在世の時、世尊が法を説く前に既に高い禅定まで修め、煩悩が効果的に降伏されている人がいた。彼らは法を聴いた後、心中で五陰が私(我)ではないことを確認した瞬間、すべての煩悩が一時に落ち、その場で阿羅漢になった。もし私たちが修行で禅定の力がなければ、たとえ我見を断って初果人になっても、煩悩を断ち切るには長い時間が必要で、一生涯煩悩を断ち切れないかもしれず、依然として貪嗔痴の煩悩を備えた初果人である。
十一、本当に如来藏を証得することも容易ではない。なぜなら、私たちは累劫以来、五陰十八界の仮相に執着し放し、七識の機能作用を私(我)として、真実として執着してきたからで、それが自分自身の自性を遮へいし、真法を知らず、仮相だけを認識するようにさせてきた。もし私たちが先に我見を断ち、更に参禅して如来藏を探すことができれば、少し容易になる。そのためには、小乗法の《阿含経》を修め、我見を断ち、初果、二果になった後、五陰十八界の仮相を一つずつ排除し、それらの仮相の中から真相を探す。
五陰の生滅する虚妄法の中で、その不生不滅の明珠を探すには、我見を断った後に初めて容易に見つけることがで来る。なぜなら、仮相をすべて排除すると、真相が現れるからである。我見を断つ前は、五陰という妄相を明珠と見なしやすく、五陰を明珠と見なすと、本当の自性如来藏という明珠が見つけにくく、真偽が混在して識別が難しい。私たちが五陰十八界をすべて排除した後、自性清浄心を容易に見つけることができ、すぐに仏門に入ることができる。
十二、仏の摂受カは催眠に似ている
勇施が重戒を犯して無生を悟ることとは、勇施菩薩が出家して具足戒を受けた後、殺戒と淫戒という二つの重戒を犯し、命が終わると地獄に堕ちて苦しむはずであったことを指す。彼は自分自身の果報を恐れるため、文殊菩薩に救済を求めた。文殊菩薩は彼を連れて仏に会わせ、仏は勇施菩薩に対して、勇施比丘という人が本当にいるのか、勇施比丘が殺した人が本当にいるのか、殺人ということが本当にあるのかを分析した。勇施菩薩はその場で思惟した後、明心開悟して無生を悟り、本当の菩薩になり、単に我見を断ちて初果を証するだけではなくなった。勇施菩薩が仏に出会ったのは非常に幸運で、業を消して地獄に堕ちないだけでなく、証悟して菩薩になり、三悪道の業も免れた。
世尊が勇施菩薩に無生理を説いたとき、催眠法を用いた。勇施菩薩はその時、極度に恐慌、恐れ、羞愧で、心が混乱していたが、仏は彼の心绪を安定させ、彼に人無我を思惟させ、背後の造作者を思惟させた。最後に勇施菩薩の意根が無我の理を確認し、造作者を証得し、我見を断ち、明心した。仏が自分自身を催眠するのを見つけることができるのは、どれだけの善根と福德が必要であろうか。私たちは皆、福を多く修めるべきで、将来、仏に出会って、自分自身を催眠され、地上菩薩になり、聖人になることができる。
また、大涅槃経において、世尊が阿奢世王の心の結び目を解くときに説いた我見を断つ部分の内容は、非常に良い。阿奢世王が父を殺した後、現世報を受け、内心は非常に不安で、仏に会った後、仏が彼の業を消し、阿奢世王に尋ねた。君の父という人は本当に存在するのか。君は本当に存在するのか。父を殺したということはあるのか。阿奢世王はそれを聞いて思惟し、いないと答えた。その後、无根信を証得したが、初果や初果向を証得しなかったのは、やはり父を殺したという業障が遮止したためである。无根信があれば、地獄の業も消せ、命が終わると極楽世界に生まれる。これも仏が衆生に対して用いる催眠法で、福德のある人だけが出会うことができる。だから、福德は非常に重要で、一部の人は自分自身だけのために、福を修めようとしない。利己的であることは愚かで、自分自身に利益がない。
十三、唯識の見道は三果、四果を証得した後である
唯識の見道とは、主に一分の唯識種智を証得することを指し、小乗の修証は三果以降、四果に近づいたときで、大乗の修証は禅宗の三関と如夢観以降である。初地菩薩は必ず小乗の三果人で、煩悩を断ち切り、恐らく少しの我慢と五陰または三界世間に対する執着がまだ断ち切られていない。
一般の人が唯識法を学んでも同様に悟りを得ることができ、しかも一旦悟りを開くと、その見地は深く、細かく、究極である。禅宗で悟りを得ると、智慧はやや粗雑で浅い。なぜなら、般若智慧は唯識智慧よりも深く、細かくないからである。
初地以上の菩薩から七地菩薩までは、惑を留めて生を潤すため、小乗の四果阿羅漢の正位に入ってはならず、四果を証取してはならず、そうしないと必ず涅槃する。菩薩が少しの貪愛を留めることは、娑婆で修行と弘法を続けるのに有利で、それ以外は全く必要がない。
十四、どんな理論でも、自分自身が理解した後、理解し、知り、知っていると感じ、運用でき、対答が自在で、他の人に話せ、はっきりと説明でき、心がはっきりしている。
しかし、それは実証したことに等しいのか。それは自分自身の理論、知見で、自分自身の見地に等しいのか。理論を完全に心得ることは難しくない。対答が自在で、一を知り二を知ることも難しくない。難しいのは、証求の段階に進み、一歩一歩実証することで、最も難しいのは、実証の段階を無事に通過し、本当に実証して得ることである。
十五、衆生が四果を証得し、俱解脱の大阿羅漢になることは、簡単なことではない。一般の人が初果を証得できるだけでも、既に喜ばしい成果で、三悪道の業を免れ、永遠に三悪道に行かなくなる。このような成果に対して、世間のすべてを捧げても、非常に価値がある。このような果報と金銭を交換するなら、無量億でも交換できない。これは無価の宝である。地獄や三悪道の衆生にとって、彼らが地球のすべての資産を持っていても、必ずしも人身を得ることができるとは限らない。一人の人が無始劫以来の執着を、一生涯の時間で滅ぼすことは、飛行機に乗るようなもので、飛行機よりも速くはない。
世間の貪執を断ち切った三果、四果の人は、仏を学ぶ前に、世間で生活しているとき、世間のすべてに不満を抱き、時には苦しんでいるように感じ、自分自身の行動や挙止がいたるところで普通の衆生と違っており、まるで異類の分子のようで、なぜこうなるのか理解できないことが多い。仏を学んで初めて、自分自身が他とは違うことがわかる。もし一人の人の身口意行がいつもどこでも他の人と何の違いもなく、衆生が貪嗔痴で、自分自身も同じように貪嗔痴で、衆生の煩悩がどれだけ重いか、自分自身の煩悩も同じだけ重いなら、この人が今世に初果を証得することも難しく、四果は考える必要もない。
十六、涅槃は四種類ある。第一種は自性清浄心涅槃で、菩薩が明心するときに証得する。この涅槃は自性本心の不生不滅性、清浄性、寂静性である。
第二種の涅槃は有余依涅槃で、三果、四果の人が証得する。つまり、阿羅漢が色身を持っているとき、余りの苦に依ることができ、色身にはまだ病苦、暑さの苦、蚊に刺される苦などの苦受がある。菩薩阿羅漢もこの涅槃を証得できる。
第三種の涅槃は无余依涅槃で、四果の阿羅漢が証得する。命が終わるとき、自分自身の五陰を滅ぼし、涅槃に入り、灰身泯智し、もはや苦受がなく、苦に依る五陰身がなくなる。菩薩阿羅漢もこの涅槃を証得するが、涅槃に入らず、永遠に自己を滅度しない。
第四種の涅槃は无住处涅槃で、仏が証得する。仏は涅槃にも住まず、生死にも住まず、大解脱で、究極の解脱で、解脱色を持つ。衆生を慈悯して、無数の色身を化現して衆生を救度し、永遠に衆生を捨てない。