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仏法雑談(第一部)

作者: 釋生如 分類: 総合 更新時間: 2024-11-09 閲覧回数: 3849

第六章 因果の章

一、昔、歯が欠け、食事の姿があまり美しくない老僧がいました。小さな沙弥がそれを見て、「お前は牛が草を噛むように食べる」と言いました。この一言のため、沙弥は死んでから五百世も牛に転生し、草を食べ、噛みました。釈迦仏が世に住んでいた時、彼は人身を得て、仏に従って出家して修行しました。前世の業がまだ消えきらず、残業があるため、食事の時もまだ牛が草を噛むような姿をしていました。彼が仏に従ってしばらく修行した後、阿羅漢果を得ましたが、食事の時もやはり牛が草を噛むような姿をしていました。

仏は彼に言いました。「君のような姿は多くの衆生に笑われ、彼らが君のために悪業を造ることになります。その果報は君の以前の果報よりもはるかに深刻です。君は既に阿羅漢なので、天に住んでいた方がいいです。人間の僧団に事がある時にだけ下りてきてください。」彼は仏の言葉に従って、天に住み、事がなければ人間に下りてこないようにして、衆生が見て悪業を造ることがないようにしました。仏が涅槃して娑婆世界を離れたことも彼は知りませんでした。この阿羅漢は誰でしょうか。それは憍梵波提です。因果ははっきりしており、身口意で作業を行う瞬間、善悪に関係なく、記載され、業種として収められ、縁が集まるとき、必ず果報を受けます。皆さんは身口意を慎んで、悪果に遭わないようにすべきです。

二、出家した沙弥が出家した老僧を笑うだけで、五百世も牛になるという大きな悪報を受けます。在家の人が出家の人を笑うと、どんな悪報を受けるでしょうか。在家の人が出家の人の法を説くことを笑うと、どんな悪報を受けるでしょうか。在家の人が出家の人の法を説くことを誹謗すると、どんな悪報を受けるでしょうか。在家の人が得道した出家の人を笑うと、どんな悪報を受けるでしょうか。在家の人が得道した出家の人の法を説くことを笑うと、どんな悪報を受けるでしょうか。在家の人が得道した出家の人の法を説くことを誹謗すると、どんな悪報を受けるでしょうか。

因果は一般の人が思いつくことができるものではありません。人が慢心を持ち、他人を笑うのが好きであれば、相手が誰であれ、悪報があります。人が嘘をついて他人をだますのが好きで、東を西に、西を東に言い、妄言や綺語をし、いつも正しく言わなければ、相手が誰であれ、悪報があります。人が他人を呵責するのが好きで(父母や師長を除く)、尊卑や長幼を問わず、自分の聡明才智を現そうとすれば、悪報があります。

要するに、身口意の行為である十不善業には、すべて悪報があります。だから仏を学ぶには因果を理解し、戒律を守り、身口意の行為を守り、善悪の違いを知り、悪を断ち、善を修めるべきです。心性が変化し、聖賢者の心性に近づけば、聖賢者になる機縁があります。聖賢者になるための前提条件は、聖賢者の心性に近い心性を持つことで、それで初めて聖賢者になる資格があります。

三、仏のような徳を持つ者でなければ、阿羅漢の聖者を焦芽敗種と言うことはできません。修証のレベルが阿羅漢より低い者は、誰であれ、言ってはいけません。言うと悪報があります。凡夫の善根は阿羅漢の一毛にも及ばず、阿羅漢を焦芽敗種と誹謗する資格は全くありません。証拠があってもダメで、事実であってもダメで、必ず悪報があります。在家の人が普通の出家の人に対しても言ってはいけません。悪報があります。徳の高い人は徳の低い人に対して言えます。戒律を持つ人は戒律を持たない人に対して言えます。先に受戒した人は後に受戒した人に対して言えます。戒は、徳です。出家戒を持つことが徳です。菩薩戒を持つことが徳です。出家する勇気があることが徳です。世俗を捨てて出家できることが徳です。修証があることは、更に徳です。修証が高ければ、徳が高いです。徳の低い者は徳の高い者に対して言ってはいけません。徳のない者は更に徳の高い者に対して言ってはいけません。そうしないと、悪報が軽くありません。

四、因果は三世を通じています。三世とは前世、今世、未来世です。ですから、今行っていることと善悪の遭遇は、果であるかもしれないし、因であるかもしれません。いわゆる果とは、前世に因があり、今世に果を収めることです。いわゆる因とは、今世に行うことが因となり、未来世に果があることです。他人が君に対して善法であれ悪法であれ作業を行った場合、果であるかもしれないし、因であるかもしれません。果である場合、前世に君が因を種まきし、今世にこの果を得るべきです。果でなく因である場合、相手が君に因を種まきし、未来に彼が果を得ることになります。これが因果が三世を通じる法則です。ですから、今の遭遇は必ずしも果ではなく、因でもありません。神通を持つ者や大きな智慧を持つ者だけが、この事が果であるのか因であるのか判断できます。

遭遇したことが果である場合、私たちは必ず縁に従って、気にしないようにしなければいけません。因である場合、私たちは必ず作業に気をつけ、できるだけ人に対しても自分に対しても善因を種まき、将来善果を得るようにしなければいけません。最善を尽くしても何も変えられない場合、縁に従います。しかし、最も基本的なことは、私たち自身が種まきするのがすべて善因で、悪因を種まきないようにすることで、未来世に悪果に遭遇しないようにします。

五、問:万法皆空、因果不空。なぜ師匠は「因果も空」と言うのですか。

答:空とは、不実で幻の意味で、生滅の意味です。因果も生滅し、幻で不実です。因果が空でなければ、業因を造作したら、永遠に果報が現れ、果報が終わらず、衆生は永遠に業を消せず、永遠に解脱できません。これは不合理です。例えば、地獄の業種が現行になり、地獄の業の報いが終わった後、もう続けて報いを受けることはないです。続けて報いを受けると、衆生は人身を得ることができません。衆生の生死が終われば、果報が終わり、そして仏に成ることができます。因果が果てしなく受け続けると、どの衆生も仏に成れず、六道輪廻から離脱できません。

人を殺す業の報いが終わった後、永遠に人を殺す業の報いを受け続けることはないです。このような因果が合理的です。君が私に百円を借金して、返したらそれで終わりです。この事は終わります。永遠に返し続ける必要はありません。このような因果はありません。因果は果たして空であるかどうか。空でなければ、私は至る所に金を撒き散らし、金を得た人は無量劫も返し続けても返しきれず、私は永遠に布施して福を修める必要がなく、座って楽をしていればいいです。これは不合理です。だから因果も空で、来る所もなく、行く所もなく、報いが終われば因果はなくなります。

六、因果がなぜ幻で不実なのか

果報は正報と依報に分かれており、正報は五陰身で、依報は宇宙の器世間と生存環境です。因果の実現は主に五陰身を通じて行われ、果報は五陰身に報われるので、五陰身が正報です。生存環境は依報であり、衆生の因縁果報も表現しています。五陰は幻で、十八界も幻で、私たちが暮らしている宇宙、器世界も幻で、生存環境も幻で、果報因果も幻で不実です。

私たちのすべての果報がこれらの虚妄法に現れる以上、果報は虚妄です。例えば、あなたが受ける善報や悪報、金持ちになることでも、病気になることでも、災難に遭遇することでも、これらの虚妄法で報いを受けるのではないでしょうか。これらの虚妄法は虚妄ですから、果報も虚妄です。もちろんすべて虚妄です。すべての果報は、五陰身に現れるに過ぎません。五陰身が虚妄であれば、果報も虚妄です。しかもこれらの果報は生滅変異し、無常です。無常なものは虚妄です。だから、すべての因果も幻で、すべての法も幻で、如来藏を除いて、すべて幻によって現れる法です。

例えば、貧困の果報、六根不具の果報、そしてすべての楽報と苦報、これらの果報は幻ではないでしょうか。すべて幻で、如来藏が業種と様々な因縁によって幻によって現れるもので、実法はありません。また例えば、あなたが善報を得て、昇進して金持ちになったり、親族が集まったり、財色名食睡などの様々な善報を得たりします。これらの報いはどこに報われるのでしょうか。すべて五陰身に報われ、五陰身に現れます。五陰身は幻で、不実で、虚妄ですから、これらの果報は更に幻で、幻によって現れる、不実なもので、真実の法ではありません。

また例えば善報で、今世、世間で王になったり、天に上がって天主になったりします。王、天主の宝位は幻ではないでしょうか。暮らしている宇宙、器世間、宮殿は幻ではないでしょうか。錦衣玉食は幻ではないでしょうか。すべての僕人、大臣、宰官、身近な従者は、これらはすべて幻ではないでしょうか。接触するすべてのものは、これらはすべて善の果報で、これらの果報はどこから来るのでしょうか。如来藏が業種、因縁によって幻によって現れるものです。だから王、天主になる善報は幻で、不実です。

また例えば、殺される、車の事故で死亡するなどの悪果報で、これらの果報はすべて五陰身で受けるものです。五陰身がなぜ殺されるのか。なぜ刑務所に入れられるのか。なぜそんなに多くの財産と親族を失うのか。これらはすべて悪報で、これらの悪報はどこから来るのか。すべて如来藏が業種、様々な因縁によって幻によって現れる仮象で、すべて五陰身に現れるものです。悪報を受けると、受ける感覚は苦受で、この苦受は識心の受けではないでしょうか。識心の感覚はどこから来るのか。如来藏が幻によって現れるもので、すべての法、善報であれ悪報であれ、すべて如来藏が幻によって現れるものです。如来藏がなければ、すべての法はないです。

幻によって現れるものは生滅し、不実で、変異し、空です。それは私ではなく、真実ではなく、私が所有するものでもないので、無我と呼ばれます。如来藏によれば、すべて不真実の法で、だからすべて空幻の法です。

七、衆生は食欲によって、最も大きな代価を払います。果報が最も速く、最も明らかなのは何でしょうか。

地球が形成された初期に、まだ衆生もなく、人類もありませんでした。二禅天の光音天の天人が、地球の表面まで飛んできて、着地した後、地球の表面に厚い地肥を見て、とても美味しいと感じ、好奇心から、一人一人の天人が少し味見をしました。その結果、この一口二口の美味しさのため、天人の体が重くなり、飛べなくなる者もいれば、高く遠く飛べなくなる者もいました。食べる量が多いほど体が重くなり、飛べなくなりました。そこで、この天人たちは地球に留まり、天に戻れなくなりました。彼らは人数が少なく、寂しさを恐れ、他の天人の仲間を呼び寄せました。仲間たちも地球に来て地肥を味見して、飛び戻れなくなりました。そうして、地球の上の人類がますます集まり、これらの人が地球の最初の人類になりました。

誰に借金をしてもいいでしょうか。何に対して欲を持ってもいいでしょうか。縁を結ぶと業縁がつながり、縁が切れなくなります。人には生きるときの見解として、食べられるものは食べ、食べたいものは食べる、食べないのはもったいないという人もいます。このような欲による結果は何でしょうか。食欲によって、飲食に縛られ、解脱できず、欲界で苦悩が無量にあり、だから食欲による損得はつり合わないです。

八、意根は無始劫以来の煩悶が六識を熏染し、六識が自覚せずに業行を作業する(意根によって指示される)。業種はまた第八識に保存され、再び意根を熏染する。このように繰り返して熏染することで、衆生は本当に解脱の日がないです。衆生は業を作るとき、顧みることなく、何も恐れず、見る者が身震いするほどです。菩薩は様々な業行がどんな果報を受けるのかを直接感じることができ、それらの果報を受けるのは本当に苦しいです。地上菩薩でも受けるのは難しいです。

九、三悪道から出た衆生は、愛欲によって生まれます。愛着の後世の果報として、大多数は餓鬼道で業果を償うことになり、愛着が軽微なものは人間になったり、天に昇ることができます。愛着は水性で、水は下向きに流れ、下が三悪道です。楞严経において仏が言っており、仏経を調べることができます。ある人が学仏する人に男女の愛着を大いに奨励し、縁を結ぶように言う者がいます。縁は結ばれますが、善であるか不善であるかについて、仏の意によれば、良い結果はありません。六道輪廻で、生死の苦悩があります。

ある人が出家して間もなく、ガールフレンドに追い詰められて戻ってしまい、そして再び出家し、また追い詰められて戻り、このように繰り返して七回も続き、大変苦悩しました。あなたが解脱しようとしても、彼女は執着して、あなたを解脱させない、生死の仇敵です。一人が清浄を求めるのに、人に執着されて休まない、その滋味は、耐えがたい苦しみです。ある人は言うでしょう。菩薩は衆生に慈悲を持つべきで、妻や子供も衆生で、もちろん更に慈悲を持つべきです。しかし、慈悲は適度で、やり過ぎないようにしなければいけません。もし自分の家族や縁者だけに慈悲を向け、すべての時間と精力を極めて少数の数人に費やし、これらの数人の根器が良くない場合、これによって自分の道業を遅らせるのは、価値がありません。このような慈悲は愛着で、解脱できず、仏が提唱するものではありません。

菩薩の慈悲は、大多数の人に向けることを主とし、精力を集中して修持することで、無量数の家族や縁者に利益をもたらし、生生世世無量劫の父母、妻、子供に利益をもたらすべきで、現在の一人の妻、一人の子、一人の父、一人の母に主な精力を注ぐべきではありません。小さな愛と大きな愛とを比べると、取るに足らないもので、小さな愛にとらわれると、道業に影響を与えます。菩薩の目は長期的で広大でなければなりません。自分の智慧の光で全世界のすべての衆生を照らすことを願うべきで、大慈大悲の心こそが本当の菩薩心で、小さな慈悲と愛は道を妨げるだけで、できるだけ早く捨てるべきです。

十、何を誹謗と呼ぶのか

雑阿含経に記載されているように、外道またはある居士が世尊の弟子に仏法を問うと、弟子が答えた後、「私がこのように答えたことが、世尊の法教に合致しているか、世尊に背くことなく、世尊を誹謗していないか」と思いました。そこでこの弟子は世尊に問うて言いました。「世尊、外道が私に仏法を問い、私はこのように答えましたが、世尊を誹謗していませんか。」世尊は言いました。「君の答えは正しい、私を誹謗していません。」ここから私たちは知るべきです。言葉や言語表現が事実に合致していない場合、それが誹謗です。弟子が伝える仏法が仏意に合致していない、仏と一致していない場合、それが誹謗仏です。仏がある法をこう言うと、弟子がそうでないと言う場合、それが誹謗仏であり、誹謗法でもあります。仏が言う法教に対して、「いいえ」と言うだけで、すでに誹謗仏と誹謗法になります。

そうすると、誹謗僧も容易です。誹謗僧は凡夫僧を誹謗することと、得道した比丘僧と菩薩僧を誹謗することに分かれ、前者の罪業はまだ軽いですが、後者の罪業は相当大きく、果報は想像を絶するものです。あなたが比丘僧と菩薩僧を否定し、「いいえ」や「違う」「正しくない」と言うだけで、事実がそうでない場合、誹謗罪が成立します。衆生は往々にしてこれらを気にせず、他人を否定することに過ちがないと思い、軽々に「正しくない」や「違う」と言うのですが、これは単なる過ちの問題ではなく、罪業の問題です。根本的な問題に関わるものは往々にして地獄の罪で、後世には自分が勝義僧を誹謗する大きな悪報を受けることになります。後世に本当に悪報を受けたとき、往々にして自分がなぜこのような悪報を受けるのかも知らず、糊塗に報いを受け、また糊塗に業を造る、衆生はこのような愚痴無知です。

十一、破戒の前提は既に受戒し、戒法を持っていることです。もし受戒していなければ、破戒ということはありません。破は破壊の意味で、受戒していなければ、破るということは言えませんが、悪業が重いものも遮障があります。重い戒を犯した場合、殷重に懺悔する必要があり、瑞相が現れるようになって初めて悪業を消すことができ、再び受戒する必要があります。

重い戒を犯しても極楽世界に往生できます。ただし、臨終時に遮障がない場合です。もし臨終の一念で、悪業の境界が心に現れると、すぐに悪業に従って悪報を受けます。臨終前に心の中の念を清浄にし、雑念が現れないようにしなければ、三悪道に行かないようにできます。初果向と初果を得ることも、罪を滅ぼすことができます。ただし、業障が遮障して初果向を得られないことが恐ろしいです。

仏は自分の重い戒と重罪を犯した弟子に、実相、五陰の空相を説き、弟子は罪を滅ぼすだけでなく、実相を証得しました。例えば勇施菩薩が悟りを開く前に、邪淫戒と殺人を唆使する罪を犯し、仏が大乗無生理を説くと、悟りを開いて実相を証得しました。阿奢世王が父を殺し、仏が五陰が幻で不実であることを説くと、阿奢世王の極重な罪を滅ぼし、无根信を得ましたが、初果向を証得していません。罪が大きすぎるからです。もし仏が彼に法を説かなければ、彼は无根信さえ得られなかったかもしれません。しかし、もし阿奢世王が母を殺した場合、罪を滅ぼすことができるとは限らず、无根信を得ることができるとも限らないです。

受戒した後に犯戒する場合、性罪、つまり心性の罪があり、また戒罪、つまり戒律に背く罪があります。受戒していない場合、性罪の遮障だけで、戒罪の遮障はありません。しかし、受戒しなければ、戒律が不満で、道業を進めることができず、証果と明心見性を妨げます。

十二、明心見性した菩薩が悪業を造る場合、果位は失われるのか

菩薩瓔珞本業経において、仏は菩薩が菩薩としての業行に違反することを造ると、三賢十地すべてを失うと言いました。地前菩薩は煩悶がまだ断ち尽くされておらず、時折、煩悶によって悪業行を造ることがあります。地後菩薩もまだ煩悶習気が断ち尽くされておらず、煩悶習気によって些細な悪業行を造る可能性があります。それらの煩悶余習は非常に微細で、断ち尽くすのが容易ではありません。一旦断ち尽くすと、八地に入り、八地菩薩になります。しかし、八地以上の菩薩にもまだ微細な無明、つまり非常に微細な愚痴があり、極めて深細な仏法に対してもまだ無知で、仏地に至って初めてすべて断ち尽くすことができます。

普通の衆生は我見を断ち続けない、または我見を断ち尽くさない者は、我見によって三悪道に入ることがあります。衆生が業を造るのは、「私」が原因で、無数の煩悶が「私」から来るので、修行を通じて我見を断ち尽くし、我執を降伏する必要があります。しかし、人我執を断ち尽くしても、更に微細な法我執が待っており、それも断ち尽くす必要があります。煩悶習気も軽視できません。地上菩薩には煩悶習気の現行があり、断つのも難しいので、地上菩薩は免れなく過失があり、微細な悪業行があります。仏戒に違反する場合、その菩薩の果位も失われます。

だから私たちが仏を学び修行するとき、毎日自分の主な煩悶の縛りがどこにあるかを反省し、それに重点を置いて観行して解決しなければ、深刻な煩悶が自分の修行を妨げることがありません。煩悶の断除の有無と智慧の程度によって、賢人と聖人に分けられます。我見を断つ初果、二果の人はまだ賢人で、聖人ではありません。三果、四果の人と初地以上の菩薩こそが聖人で、地前菩薩は賢人です。まだ貪嗔痴が断ち尽くされていないので、その德行は聖人に足りず、本当の聖人、聖人のすべての德行を備えたのは、仏だけです。

十三、問:地獄に入って罰を受けるのは第幾識ですか。その中で幾つの識が一緒に地獄に行きますか。

答:意根と第八識が一緒に地獄に下り、それから六識がすぐに生じ、意識が「え!私はどうして地獄に来たんだろう?」と気づきます。そして、身識が刑具による強烈な痛みを感じ、意識が比類なき苦しみを感じ、六識がすべて苦痛を感じ、意識は無力に様々な苦痛の拷問を受け忍び、業報が尽きるまで地獄から出ることができません。しかし、何劫もの時間が過ぎているのかはわかりません。無間地獄には広い大鉄床があり、地獄がどれだけ広大であれ、鉄床もそれだけ広大です。地獄は無辺無際に広大で、鉄床も無辺無際に広大です。鉄床がどれだけ大きければ、色身もそれだけ大きく、すべての刑具が同時に色身に加えられ、隙間がありません。全身の各部位が刑具の残酷な拷問を感じ、苦痛で耐えられなくなり、死んでしまうとすぐに目が覚め、また拷問を受けます。三宝を誹謗すると、このような末路に至ります。

三宝を誹謗することには、有根誹謗と无根誹謗があります。有根誹謗とは、その人が言うことが事実でも、罪があります。だから、仏陀が僧人に定めた戒律は在家人に見せることを許さないのです。在家人が戒律を知って出家人が戒律を犯したと非難することを恐れています。そうすると、三宝を誹謗してしまうからです。无根誹謗は、全くそのことがないのにそのことがあると言う、事実を捏造することで、罪は更に大きいです。両方とも罪があるので、皆さんは三宝の過失を言わないようにしてください。事実があるかどうかに関係なく、口を閉じることを知らなければなりません。果報は恐ろしく、惨めで目を覆いたくなります。昔、ある人が阿羅漢を誹謗したとき、阿羅漢は人々を集め、誹謗業を造った人に公衆の面前で懺悔させ、その人の罪を消すようにしました。その人は公衆の面前で阿羅漢に向かって懺悔し、自分の罪を消しました。しかし、死ぬときにはやはり地獄に下りて悪報を受けました。ただ、悪報を受ける時間は短くなりました。もし懺悔しなければ、地獄から出るのは非常に難しく、地獄で受ける罪も非常に重いです。

三宝の中に大小乗の果位を証得した聖賢人がいる場合、聖賢人に対して誹謗業を造ると、その罪業は言葉では表せないほど深刻です。仏法上の誹謗であれ、世俗の日常生活の個人的な行為の誹謗であれ、事実であるかどうかに関係なく、すべて罪が無辺際です。出家人の身口意行は、どんな場合でも非難してはいけません。そうしないと、罪業が重く、必ず悪報を受けます。特に、得道した出家人に対しては、その身口意行の些細な過失も非難してはいけません。煩悶が極めて重い人が、三宝に近く住むことは必ずしも良いことではありません。煩悶が極めて重い人は、誰に対しても悪業を造ることができます。相手が誰であれ、彼は何も恐れず、自分自身をコントロールできません。だから、このような人は、やはり三宝から離れた方が良いです。

十四、聖人の行為は、道を得ていない人が盲目的に追従してはいけません。智慧が違えば、心遣いが違い、結果も違います。心の地を明らかにしていない人は、無相の相を見ず、無生の理を知らず、法を実在するものと見、究極を知りません。心を明らかにした人は、法が無生で、相は本来存在しない、虚妄で不実で、人の目を惑わすことを知ります。相を実在するものと見ると、即ち業行があり、相を非相と見ると、業行も虚妄です。心智が違えば、業果も遺います。昔、ある道人が、諸仏菩薩の名号を下着に書き尽くし、それを着ていました。愚かな人がそれを見て、すぐに真似をし、数日後、吐血して亡くなりました。

聖人の心を学ばず、単にその相を学ぶだけで、その独特な心遣いを知らず、衆生は愚かさゆえ、自分自身を害し続けます。昔、丹霞禅師が、相に執着する人を度すため、独特な手段を用い、木仏を焼きました。道人の心の中で、実証して無生で、四相もなく、一切の相もありません。木仏は仏ではなく、舎利もなく、舎利があるかないかに関係なく、真の仏ではありません。真の仏は无相で、火で焼けない、水で淹れない、風で吹かれない、石で打たれない、山で圧されない、啼唾罵詈、侮辱誹謗も、一切着かない。たとえ神であっても、それに対してはどうすることもできません。衆生は愚かで、丹霞を真似してはいけません。木仏や石仏は、像として人に示すもので、心に恭敬を持つと、福が増えます。もし礼拝できれば、その福は無辺際です。慢幢を折り倒し、自分自身の心を降伏させましょう。精進して修行し、早く無生を悟り、自分自身の心を知り、それが仏心です。見性して仏に成るのは、他によるものではありません。

十五、末法時代の衆生は心が浮ついており、その中には、まさに衆生の浮ついた心理に迎合し、衆生を喜ばせようとする者もいます。もし衆生の悪習と少しも逆らわないなら、どうやって衆生の悪習を転じ、どうやって衆生を解脱させることができるでしょうか。衆生は欲深いだけでなく、愚かでもあり、刀の先の蜜を舐めようとし、最後に何を得るのか。誰も考えていません。多くの人は目先の少しのいわゆる利益だけを顧み、三悪道に行くリスクを冒しています。見た目は大胆ですが、実は愚かさゆえ、目先しか見えず、将来の長期的な大きな利益を考えることができません。

大多数の人は実際、個人の利益を考え計画していますが、行うことで、自分自身が利益を得ることができず、しばしば既に持っている利益を失うことが多いです。しかし、誰もこのことを思いつかず、これを見ることもできません。なぜでしょうか。無明愚痴で、煩悶が自分の両目を遮っているため、自分自身が見えず、本当の利害得失が見えないからです。

因果に関して、多くの人が本当に信じておらず、いつも倖いの心理を抱いており、因果はすべて他人の頭に降りると思い、自分自身には降りないと思っています。だから、自分自身の利益のために、他人が自分の指示に従わない場合、必ずある種の悪果報があると言い、自分自身の悪果報が間もなく来ることを知らず、自分自身が悪果報の因を作っているのです。私が初めて仏を学んで経書を読んだとき、因果に関するいくつかの本当の物語を読み、因果が本当で嘘がないことを信じ、身口意にも気をつけて行動しました。しかし、現在の学仏する人は、根本的に仏経を読まず、仏経が何を言っているのかを知らないため、心が盲目で因果を理解できません。

現在はインターネットが発達しており、悪業を造ることが以前よりもはるかに便利です。指を動かすだけで、悪業が全国に広がります。本当に嘆かわしいことです。誰も自分が指を動かした後の悪果が何であることに気づいていません。無知者だけが恐れを知らず、心が塞がれ、他人に盲従し、善悪を知らず、大きな悪業を造り、悔やむことも知りません。一部の人が悪業を造るのは、人に唆されているため、自分自身は知りません。例えば、人に「君がこうしてやれば大丈夫だ。因果は私が引き受けるから、君には善果だけがあり、悪果はない」と言われると、一部の心が盲目な者がこの人の言うことを信じ、この人が本当に自分のために因果を引き受けることができると思います。しかし、因果が来るとき、それぞれがそれぞれの果報を受けることができ、根本的に互いに代わることはできません。たとえ親の子であっても、どうすることもできません。

十六、生死輪廻の業縁は愛着です。

因果は命終のときに現れ、秋後の取り決めのようで、もちろん夏に取り決めることもあります。業果が非常に大きいとき、果報は早く熟し、秋になる前に取り決めます。誰もが臨終のとき、内心が貪欲な念であれば、家族や親族に貪るにせよ、人間の生活に貪るにせよ、財産や情に貪るにせよ、餓鬼道で受生します。もし臨終の一念が嗔念で、何を嗔るにせよ、比較的深刻な場合は、地獄で受生する可能性があります。

だから、臨終に希望をかけ、臨終において念仏ができ、心が清浄を保つことができると思うのは、非常に不安定です。臨終にはどんな状況が起こるかわからず、どんな心念が起こるかわからないからです。もし普段の心念さえコントロールできないなら、臨終に四大が分解し、業障が再現し、怨み親しい債権者が借金を取り立てに来ると、大多数の人は業縁に従って心念を起こし、三悪道に行きます。三悪道に入らないことを保証できません。福報が非常に大きい業行は例外で、天に昇って福を享受することができます。

三悪道に入らないことを保証できるのは、一つは我見を断つこと、二つは明心見性すること、三つは観無量寿経の地観成就です。念仏で予知时至が保証できないのは、臨終において念仏の心が専一でなく、誠心が足りないと、仏が迎えに来ないからです。学仏する人の百分之九十以上は、臨終に三悪道で受生します。その中の大多数は餓鬼道に行きます。なぜなら、全員が貪欲で、欲を断ち除いていません。欲を断ち除く状況は、我見を断った後、初禅定を生じ、定中で欲と嗔恚を断ち除くことです。これ以外はすべて欲心があります。しかし、初果と二果の人は、軽微な欲心があっても、三縛結を断っているので、餓鬼道で受生しません。欲界天または人間で受生して、引き続き欲を持つか、ゆっくりと欲を断つことができます。

六道輪廻はこのように情け容赦がなく、面倒を見ません。真の修行と実証がなければ、命終になると、業縁に従って、貪欲な念に従って行き、選択の余地がありません。普段、訓練がなく、訓練に成功していないからです。我見を断った後の人だけが、訓練に成功した人です。

しかし、本当に我見を断って心を明らかにしていない人は、依然として訓練に成功しておらず、依然として三縛結を断っておらず、依然として貪欲な念に従って餓鬼道で受生します。避けられません。特に、五戒や菩薩戒を犯した人です。無数の学仏する人が自覚しておらず、依然として毎日食べること、着ること、住むことに貪り、享受を好み、いわゆる自在を好み、派手さを好み、快適さを好み、琴棋書画などの様々な芸術を好みます。これらの好きなことは煩悶の縛りで、自分自身を六道に縛り付け、心の病です。誰もが享受すべきものを享受して、一生を生きることには損はなく、自分自身を苛めていません。しかし、後世はどうでしょうか。現在の享受が重要ですか、それとも後世の三悪道の苦しみを免れることが重要ですか。

また、高級で高尚な修行方法があり、肉を食べるときに肉を食べるという考えを持たないというものです。肉を食べるときに本当に肉を食べるという考えを持たない、心が転じた人として、济公和尚が一人です。他に何人ができるでしょうか。肉に興味がないのに、どうして肉を食べなければならないのですか。畜生を一匹少なく死なせないですか。臨終のとき、肉の主が借金を取り立てに来たとき、借金を返さない能力がありますか。

十七、因果というものは、来るとき、誰も止めることができません。どんなに強大な勢力があっても、誰も因果に対処することができません。他人を攻撃するのが好きな人、三宝を誹謗する勇気がある人は、因果が非常に速く来て、洪水のように止められない勢いです。因果を明瞭に知ると、私たちの心は平穏です。

十八、凡夫も菩薩と同じように因を畏れるべきです。

因果において、因はとても小さく、果は無限に大きくなります。菩薩は因果を理解しているので因を畏れ、凡夫は因果を理解していないので果だけを畏れます。菩薩は悪い因を植えることを恐れ、大きな悪果を得ることを避けます。一方、凡夫は大きな悪果報が来るとき、初めてこの運命が恐ろしいと感じます。恐ろしいと感じても、依然として悟りを得ることはできず、恐ろしい果報が自分自身の小さな心行によって引き起こされたことを知りません。

十九、仏を学び修行する人は、自ら心を責めることが上手であるべきで、常に内心を反省し、法に合致しないところを発見したら、自ら心を責め、心を正しい方向に導き、正しい道に向かわせ、貪嗔痴の煩悶から離れ、無明から離れるべきです。常に考えるべきです。究極的には自分自身の道業が重要なのか、それとも自分自身の不合理な覚觀が重要なのか、それとも世俗法の貪嗔痴の業行が重要なのか。常に考えるべきです。自分自身が世俗法でいわゆる利益を得ることが、長期的なものなのか、本当に存在するものなのか、消えてしまうものなのか、本当に利益があるのか。修行者は常に自問するべきで、自問して初めて悟りを得て、定力を持ち、智慧を生じ、世俗法から解脱することができます。

無量劫にわたって世俗法に取り組んできましたが、誰もが無量劫の間、世俗法で一体何を得たのでしょうか。無量劫の愛着がもたらすのは一体何でしょうか。生死の苦以外に何がありますか。智慧を持つ者は、本当に常に反省するべきで、そうすることで生死の本質を見抜き、生死の惑業に執着しなくなり、生死の苦しみの輪から抜け出す力を持つことができます。

二十、なぜ学仏する人が学ぶにつれて、苦難が増えるのか

仏門に入って仏を学ぶ人は、皆、善根を持つ人です。一生一世、数生数世で仏を学び修行を始めたのではなく、修行時間は劫で計算されます。三宝に対する信心が十分で、自身に対する信心も十分な人は、もう十万劫もの間修行している可能性があります。十住位に入って菩薩六度を修行する人は、もう十万劫をはるかに超える修行時間があります。

大多数の人が仏を学ぶのは、何らかの因縁があって仏門に入るのです。体に病苦がある場合や、诸事が順調でない場合などです。仏を学んでしばらくすると、病苦が軽減し、事が順調になり、仏を学ぶことが良いと感じます。仏を学ぶ信心が十分になると、様々な障害の縁が現れ、様々な事が順調でなくなり、体に病気が現れるなどの状況が起こります。衆生は無始劫以来ずっと業を造っており、業障が非常に深く重いです。仏を学び始めたばかりの時、護法や菩薩たちが護持して、深刻な業障が仏を学ぶことを妨げないようにします。なぜなら、この時、これらの業に耐えることができないからです。業報が現れると、衆生は信心を失うからです。修行をしてしばらくすると、一部の業障に耐えることができるようになると、護法はもう業障の現行を遮らなくなりますが、耐えられない業障については、やはり少し遮ることがあります。このように、修行してしばらくすると、自分自身の業障が現前することがわかります。

順調でないことにもう一つ重要な原因があります。それは、修行が非常に効果的なとき、後世に受けるべき果報が、今世に早めて受けることです。早めて受けることは重罪を軽く受けることで、悪い果報を越えて早く受けるほど、その報は軽く、善い果報を越えて後に受けるほど、その報は大きくなります。これは銀行に預金する道理と同じです。預金には利息があり、仏法ではこれを孽息と言います。預金を早めに引き出すと、利息が少なく、悪業も軽く、善業も軽くなります。だから、悪業は早く受けるほど良く、できるだけ早く受けるほうがいいです。善業は後に受けるほうが良く、できるだけ後に受けるほうがいいです。もし耐えられるなら、善業はできるだけ後に受けるようにして、そうすれば果報が非常に大きく、銀行の預金がますます増え、利子が利子になるのと同じです。

衆生が造る業の種は如来藏の中に存在します。如来藏は銀行のようなもので、この銀行の預金利率は非常に高く、最低でも百倍、最高では無量倍です。だから、少しの善法を植えるだけで天に昇って福を享受でき、少しの悪業を植えるだけで地獄に堕ちて苦しみを受けます。しかも、如来藏という銀行は決して倒産しません。業種が失われることはありません。つまり、善業や悪業の果報は誰にも盗まれず、奪われず、自分自身が受けるだけで、他人に代わって受けることはできません。金剛経第十六品で仏は、金剛経を受持した人が、先世に造った罪業で本来は悪道に堕落するはずが、もし誰かに軽蔑されると、彼の先世の罪業が消滅し、人に軽蔑される果報だけを受けて済む、これが重罪を軽く受けることです。

だから、菩薩が明心見性した後、三悪道の業が消滅しますが、依然として様々な苦難があります。これらはすべて重罪を軽く受けることで、人間で苦しみを受け、決して三悪道で報いを受けることはありません。そうすると、修行が一定の段階に達すると、耐えられる様々な業障が徐々に現れます。これは良いことで、後世に受けるよりはるかに大きな業報を受けるよりはずっと良いです。これらの業報を受けた後、障害の縁が減少し、以降の修行が速く進みます。

これらの業障の一部は護法によって管理されています。彼らは修行者を世話しており、時には業障を遮り、時には遮らず、または一部を遮り、他の一部を遮らないことがあります。だから、我々が仏を学び修行するとき、毎日、我々の護法神に回向をし、彼らが皆、明心見性し、道業が絶えず進歩し、護法の功徳が完璧で殊勝であることを願うべきです。我々自身が障害の縁に遭遇したとき、文句を言わないようにし、できるだけ福を享受しないようにし、如来藏の銀行からの引出しを少なくしましょう。善款は失われませんが、引き出して享受するとなくなります。しかも、如来藏の銀行に預金が多ければ多いほど、我々は富貴で、菩薩道の資糧が多く、成仏の道をより速く進むことができます。我々が仏法を学ぶ資糧をますます増やし、道業の進歩をますます速くしましょう。

二十一、どんな人が三悪道の業を免れることができるのか

本当に我見を断ち、本当に心を明らかにして三縛結を断つ人だけが、三悪道に行かないことを保証することができます。本当に我見を断っていないのに、ただ心の中で五陰が無我であると思うだけで、三縛結が断たれていなければ、三悪道を免れることはできません。弘法して衆生を度す心は尊いですが、自分自身が修持していなければ、衆生を生死から救い出すこともできず、自分自身の道業も遅れます。一旦、煩悶や愚痴の業種が現行になると、直接三悪道に行きます。因果は一つは発心にあり、もう一つは事実にもあります。

自分自身が救われていないのに先に人を救う者は、発心は菩薩心ですが、本当の道力がなければ、結果も恐ろしいものです。自分自身が三悪道を免れることができるようになってから、弘法して衆生を度すために出てきて、個人の道業を犠牲にするのであれば、大丈夫です。ある人は言うでしょう。「私は我見を断ち、心を明らかにし、三悪道を免れることができます。」しかし、本当に我見を断っているのか、本当に心を明らかにしているのかは、自分自身が言うだけでは決められません。どの印証をする人が言うだけでも決められません。因果にはそれ自身の道理があります。

ある人は五戒を守り、犯さなければ人身を得ることができると言いますが、無色界天の天人は八万大劫も心が清浄で、少しの悪業も造らず、命終の時、無始劫以前の悪業が成熟し、直接地獄に堕ちます。欲界天の天人や色界天の天人も同じです。今世は悪業を造らなくても、無始劫以前には大きな悪業を造っており、非常に多くの悪業がまだ報いを受けていません。命終に一旦それらの悪業の縁が熟すと、即ち業に従って輪廻し、自主能力が全くありません。本当に我見を断ち、三縛結を断つことで初めて、三悪道の業を消滅することができます。しかし、もし再び大きな悪業を造ると、依然として三悪道で報いを受けます。

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