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五蘊の観行による我見の断ち(第一部)

作者: 釋生如 分類: 二乗の解脱 更新時間: 2025-02-25 閲覧回数: 49

第六章 五蘊と第八識の関係

第一節 二種の無我法の内実

一、無我の意味

「無我」の二字は、文脈により異なる意味を表す。此等の意味を明瞭にせねば、無我の真意を把握できず、如何に修行に着手すべきか分からぬ。妄心七識の無我は、一に不生不滅性無く、永続性無く、真の主宰性無しを指し、二に第八識の如き空性無しを指す。真心第八識の無我は、一に七識の如き自我性・利己性無しを指し、二に七識の如き主宰性・作主性無しを指す。

此等の概念を明確にせねば、我と無我の真実義を理解し、自らの修行を導けぬ。これらの概念から脱出するのも容易ではない。一つの名相が多義を有する場合、意味を明らかにせねば曖昧模糊となり修行着手不可能である。例えば「真実」という語は、文脈により異義を表す。一義は不生不滅の真実相たる第八識(本来より存在する)を指し、他義は世俗法における事実に合致する相(然し此れは生滅法で本来法に非ず)を指す。

二、二種の無我性を弁別する

苦空無常無我法を観行し、最終的に世俗界の五蘊十八界が悉く生滅の無我法であることを実証する。五蘊が確かに生滅性であることを実証して初めて無我を知り、無意味及び悪不善なる五蘊活動を漸次滅除する。最初は五蘊活動を減少させ、五蘊活動に興味を失う。五蘊が無我であり生滅・変異・空・無意味であることを了知する為である。

第八識を参究する目的は、五蘊中の第八識を実証することにある。実証後は五蘊と第八識の関係を現量観察し、最終的に一妄一真を実証する。妄が如何に妄たるか、真が如何に真たるかを観察する。第八識の真実永続存在性を証得し、五蘊身中における第八識の清浄性を観察すれば、第八識の無我性を証得する。同時に第八識が如何に具体的に五蘊を出生するかを観察すれば、五蘊が確かに虚妄不実・無我であることを証得する。

二種の無我性は指向を異にする。苦空無常無我性は生滅無常に対応する存在せぬ我(七識の我、仮我、滅除可能の我)を指す。第八識の我は不生不滅・真実性・清浄性に対応する。第八識の無我性は、第八識心中に自我認知無く、私心無く、我心無きことを表す。此の二種の無我を混同してはならず、然らずんば正しく修行できぬ。無我の妄心は必ず生滅変異し、無我の第八識は永遠に不生不滅である。

二種の無我は二種の意味を有す。七識の無我は真実性無く毀壊性有り。第八識の無我は私心無く、我性無く、作主性無く、執取性無し。七識が第八識に依って無我を修めた時も、第八識の如き無我無私不執取性に類似する。我性微弱の者は自らを否定し非を改め転換速やか。我性重き者は再び理に従い思路を整理せず、些細な自否定も拒み、己の非を検討せず理に固執し改めず、修行甚だ困難。

禅定無き場合、思惟は粗雑で論理性無く、法義の是非錯謬を整理できず頭脳混乱す。特に複雑な法義に遭遇すれば手掛かり無く着手不能となる。故に禅定は極めて重要である。

三、妄我と真我の対等不可

我は仏を学ばず、修行せず、戒を持たず、定を修めず、智慧を開かず、解脱を求めず、瀟洒自在に任運自然である。此の「我」は何を指すか?第八識を指す。此処の主体を七識に置き換えることは可能か?七識五蘊も第八識の如く、仏を学ばず、修行せず、戒を持たず、定を修めず、智慧を開かず、解脱を求めず、任運自然となり得るか?明らかに不可能である。成仏後、識を転じて智と為し七識心性が第八識に近似した場合を除く。

或る者が「第八識を学び依止し転依すべきなら、第八識の如くあるべき」と説く。此の言は正しいか?正しくもあり正しからざるも有り。厳密な論理思考を以て、第八識に学ぶべき方面と学ぶべからざる方面、学ぶべき時と学ぶべからざる時を弁別せねばならない。成仏後の七識は第八識と同様、仏を学ばず戒を持たず定を修めず智慧を開かず解脱せず成仏せぬ。成仏前の衆生段階では仏を学び戒を持ち定を修め智慧を開き解脱を求め成仏を求むべきである。成仏前は五陰身作動における第八識の清浄性・貪瞋痴無き性を学ぶ必要有り。成仏後は七識が第八識と同様清浄となる為、第八識の清浄性を学ぶ必要無し。仏は無学の者である。二つの我を明確にせねば修行できず、混同すれば修行不能で成就も叶わぬ。

四、大小乗を混同してはならない観行

自我を捨てて無我に至る。二つの「我」はいずれも何を指すのか?いずれも妄我を指す。妄我と真我の論理関係が理解できない場合、大小乗の修行共に困難を来す。小乗の観行をしながら小乗的無我の結論に到達しないのは、いかなる観行か?大乗の観行をしながら小乗的結論しか得られないのは、根機がまだ充分でないからだ。一般的に、未だ明心せず明心から距離のある者には、小乗的観行に専心すべきで、大乗法の参禅と混同してはならない。根機不足・智慧有限のため、正しい観行結果を得る可能性薄く、真に我見を断じ得ない。

無我は全て大乗法の第八識を指すのではない。第八識に依転して初めて無我となるという説があるが、そうではない。例えば世俗界の仏法を知らぬ者たち――雷鋒などの英雄人物が世俗事業で達成した所謂無我――彼らは皆第八識に依転したのか?皆そうではない。小乗の初果から四果まで、第八識に依転したのか?皆そうではない。故に無我法を全て第八識に機械的に当て嵌めるのは不適切で、実際に観行体得すべきである。小乗で真に証果した者は、必ず合理的如実の結論を得、大乗法に飛躍して大乗的結論を導出することはない。

多くの者の言説から、実際の修証を経たか否かが判別できる。言語はその結論が真修実証に基づくか、情思意解による鸚鵡返しの理論かを示す。凡夫がいきなり初地・八地菩薩の修行を説く場合、その者は実修を全く理解せず、如何に修行着手すべきかを知らない証左である。故に他人を右往左往させ、明確なロードマップを持たない。自ら歩んだ道でなければ、明確なロードマップなどあり得ない。皆さんはしっかり禅定を修すべきだ。禅定思惟と論理性がなければ、明晰透徹とはならない。

五、小乗観行が導くべき結論とは

五蘊の苦集滅道を観行した後「五蘊は第八識ではない」という結論を得た場合、何を示すか?これは全ての凡夫衆生が無始劫以来ずっと五蘊を第八識と見做し、後に仏法に遇い解脱を得んとして観行思惟を経て、従前の誤った認知を修正し、邪見を正見に改め「五蘊は第八識でない、五蘊は第八識でもなく、非第八識でもない」と説くことを示すのか?この「非非第八識」という表現は、五蘊もまた第八識であるという意味を含むのか?

もしそうなら、凡夫衆生が無始劫以来五蘊を第八識と認識し続けたことに何の誤りがあるのか?これは邪見なのか?誤りではないはずだ。もし凡夫衆生が真に五蘊を第八識と見做し続けていたなら、我見も我執もなく、無明も煩悩も存在せず、仏が娑婆に八千返も来て衆生を救う必要などなかったはずだ。衆生が第八識の我を認めれば五蘊の我を認めず、悪業を造作することもない。最も肝心な点は:凡夫衆生は無始劫以来本当に五蘊を第八識と見做してきたのか?

もし凡夫衆生が無始劫以来五蘊を第八識と見做し続けてきたなら、全ての凡夫衆生は地上菩薩であり、唯識種智を具えていることになる。なぜなら地上菩薩のみが唯識種智の現量観行によって、五蘊全体が第八識であることを観察できるからだ。ぬいぐるみ全体が布であり、土人形全体が土であり、金細工全体が金であるように。ならば一切衆生は無始劫以来地上菩薩であり、我見を断じ、第八識我見を断じ、我の第八識見を断ずる必要などないではないか?

もし凡夫衆生が無始劫以来第八識真我の存在を知らず、五蘊を第八識と認識していないなら、凡夫衆生が解脱法に遇い四聖諦の苦集滅道を観行し、苦空無常無我を観行する時、最終的に「五蘊は第八識の我でなく、我の第八識でもない」という結論を導き得るのか?これは概念のすり替えではないか?もし概念のすり替えなら、真に我見を断ずる者など存在せず、全ての小乗行者は法眼浄を得られず、解脱も得られないことになる。

真に如実に三十七道品を修行し、如実に観行した者は、我見を断じて証果する際、決して「五蘊は第八識でない」などという結論を導き出せない。このような結論を与えることは、実際の修行を情思意解で捉えたものであり、純粋に研究から生じた理論に過ぎず、如実の思惟観行過程を経ていない。我見を断じた後、大乗法の角度から観行して初めて「五蘊は第八識でない」という結論に至るのである。

仏が弟子たちに四聖諦を説く際、まず「五蘊の中に真我たる第八識が不生不滅で存在し、たとえ五蘊十八界を滅尽しても第八識は滅びない」と告げられた。これにより弟子たちは仏語を信受し、不滅の存在を知り、無余涅槃の後も断滅空無でないこと、その真我が有用であることを悟った。弟子たちは仏の言葉を聞いた瞬間、五蘊十八界が滅び得るもの、第八識が不滅であることを知り、五蘊が第八識でないことを理解した。しかしこの理解は意識の知に過ぎず、意根による実証ではない。実証すれば大乗菩薩となる。彼らは第八識を探し求めることもなく、ただ五蘊の苦集滅道を観行し、「辛苦を重ねて観行した末に五蘊は第八識でない」などという結論を導き出すことはしない。

もしそのような結論を導くなら、その者は如理観行を経ていない。この結論は仏が真我の存在を説かれた時点で心に知り得たはずである。仏が第八識如来蔵を説かれない限り、凡夫衆生は第八識の存在を知らず、従って「五蘊こそ第八識」という観念を持つこともなく、ましてや我見を断じ「五蘊が第八識である」という観念を破る必要も生じない。故に、五蘊を観行しながら「五蘊は第八識でない」という結論を導くのは邪観であり、真に小乗法を観行せず、我見を断じていない証拠である。

阿含経で仏が四念処経を説かれし時、身不浄を観じ、受は苦を観じ、心無常を観じ、法無我を観ぜよと示された。もし真に如実に観行を実践し、数年を経て我見を断じた者が「身は第八識でない、受は第八識でない、心は第八識でない、法は第八識でない」という結論を導くならば、問わねばならない:この者は如何なる観行をしたのか?世尊の教えに従って如実に観行したのか?この者は想像によって結論を下しただけで、真に如理観行をしていない。もし小乗修行者が真に「五蘊は第八識如来蔵と異ならない」ことを証得したなら、彼らは苦を恐れて五蘊を滅し無余涅槃に入ろうと急ぐことはないはずである。五蘊が全て第八識の示す幻化相であり、実事も真の苦も存在しないことを証得すれば、苦を避け逃れる必要がなくなるからである。

六、苦は非我の意味

五蘊無我を観行した後、「色受想行識は苦であり、苦は第八識でなく非第八識である」という結論を導く場合、これは理に適うか?

色受想行識が苦であり第八識でないことを証得すれば、次第に色受想行識を厭離し、これを喜ばなくなるか?もしそうなら、第八識を貪愛し、第八識を喜楽する方向に転じるだろう。小乗聖弟子は第八識を喜楽し貪愛できるか?このような現象は存在するか?もし存在するなら、阿羅漢は第八識を喜楽するが故に菩薩道を修学し続け、自利利他を行い、無余涅槃に入らず、三界世間から消失することはないだろう。

理論的には「五蘊は第八識でない」と知り得る。仏が第八識を紹介するのを聴聞した瞬間、誰もが理解し得る。多くの者は「色蘊が生滅去来を止めぬのは当然真実の我でも第八識でもない」と一考するだけで、五蘊が第八識でないことを辛苦を重ねて思惟観行する必要などなく、これは著しく本題から逸脱している。

「五蘊は苦であり、第八識及び第八識の所有でない」という説は理に適うか?意根は当然五蘊を我(自己)の所有と認識し、第八識の所有でないからこそ五蘊を我として執着し、無量の生死苦が生じる。もし凡夫の意根が五蘊を第八識及び第八識の所有と認識するなら、凡夫の意根に我見や我執は存在するか?遍計所執性は残るか?何も自己の所有でないなら、意根は何を執着するのか?

五蘊の本質は第八識そのものである。五蘊を形成する六大種子は全て第八識に由来し、第八識が投資生成した五蘊である。当然五蘊は第八識の所有である。如何なる観行を経て逆に「五蘊は第八識でない」と認識するのか、これは奇妙ではないか?理論構築には必ず行き詰まる時が来る。自説を完結させ得ぬ日が訪れる。これに対し実証者は、縦横に説いても理に適い、誰も反駁できない。

七、五蘊非我における「我」の正体

元来、第六・七識は五蘊を我と見做していたが、観行により我見を断じた後は、五蘊を我と見做さなくなる。意根が色蘊を我と見做す時、受蘊を我所と見做し、色蘊が受蘊の中にある、或いは受蘊が色蘊の中にあると認識する。観察してみよ:色蘊の中に受蘊は存在するか?受蘊の中に色蘊は存在するか?いずれも存在せず、両者は相互に混合しない。同様に、意根が受蘊を我と見做す時、色蘊・想蘊・行蘊・識蘊を我の所有と見做し、受蘊の中に色蘊・想蘊・行蘊・識蘊が存在すると考える。実際には諸蘊は相互に分離せず、また混合存在せず、五蘊を具体的に観察する時、この理を証得し得る。

もし身体の中に受を見出し、受の中に色を見出せるなら、死人にも受が存在し、木材にも受が存在することになる。受の中に色が存在するなら、受は即ち色であり、受は色を有することになる。受が色を有するなら、識心の無色的作用機能ではなくなり、他の諸蘊も同様に観察されるべきである。大乗の理と小乗の理を同時に観行すると、小乗無我の理を観行する際に観行不能に陥る。大小乗の理を同時に思惟観行すると思想が混乱し、小乗による我見断絶に支障を来す。大乗の理を明瞭した後、小乗専心の観行時には大乗を混ぜないこと。さもなくば着手不能となる。

もし「五蘊は第八識でなく、第八識と異ならず、第八識と相在せず」を観行しようとするなら、各自努力して試みられたい。観行可能か? 思路はあるか? 参禅により第八識を証得し般若智慧が深まって初めて可能となる。智慧浅き者は達成不能である。心経に「深般若波羅蜜多を行ずる時」とある如く、五蘊皆空を照見し得るのは深般若時のみ。浅般若波羅蜜多を行ずる時は未だ照見できず、まして般若波羅蜜多を行じていない時など尚更である。仏が阿含経で説かれた方法に従って観行すれば思路は円滑で、独自の方法を創出する必要はない。

八、我見を断ずるとは誰の我見を断ずるか

識蘊六識を我と見做す「我」とは、真我第八識か、それとも妄我意根か?我見を断ずるとは、意根に識蘊を我とする我見を断除させるのか、第八識に識蘊を我とする我見を断除させるのか?観行の最終段階で意根が識蘊無我を認識するのか、第八識が識蘊無我を認識するのか?我見断絶の結果とは、意根に「識蘊五蘊は我でなく、我の所有でもない」と認識させることであり、第八識に「識蘊五蘊は無我無我所」と認識させることではない。我見・我所見は第八識と無関係である。

識蘊の苦空無常無我を観行するとは、識蘊の生滅変異無常性及び識蘊の無我性・不真実性を観じ、仮我でなく仮我の所有でもなく、実際に仮我妄我も存在せず全て空であることを観ずるべきである。識蘊五蘊が第八識でないことを観行するのではない。

この観行を行う主体は誰か?第八識が観ずるのではなく、意根が意識の観察を基盤に自ら観ずるのである。最終的に意根は「識蘊は我でなく我と異ならず、我と識蘊は相互に存在せず包含せず」を証得する。「異」とは別・他の意であり、識蘊は我と別物でなく我以外の我所でもない。「不異」とは別でないこと、他の存在でないことを意味する。識蘊は我でも我所でもなく、我も我所も全て我であり、共に断除すべきである。

誰が識蘊無我非我を実証するのか?誰が色蘊無我を実証するのか?誰が受蘊無我を実証するのか?誰が想蘊無我を実証するのか?誰が行蘊無我を実証するのか?誰がこれらの蘊を我とする我見を断除するのか?我見は誰の見か?我見における「我」は何を指すのか?五蘊を我とする知見は邪見であり、五蘊非我を我としない知見は正見である。誰が邪見を持ち、誰が正見を得たのか?どの我の邪見を断じたのか?どの我に正見を持たせたのか?誰が五蘊非我を認識するのか?誰が五蘊を我と認識するのか?

五蘊が「我」であるという時の「我」はどの我を指すのか?この知見は正見か邪見か?正見であれ邪見であれ、第八識には存在しない。第八識自体は知見を起こさず、仏法を学ばず修行せず、見惑煩悩惑を持たないため、見惑や煩悩惑を断除する必要もない。故に観行の初めは第六・七識による観行であり、観行の果てに第六・七識は五蘊を我と認めなくなり、所謂「我」も存在せず五蘊十八界が無我であることを知る。

もし観行の末に「五蘊は第八識でない」という結論を導くなら、証果以前にその者は五蘊こそ第八識と認識していたことになる。しかし衆生は無始劫以来このような覚悟を全く持たず、真我第八識の存在を知らず、常に五蘊を妄我と見做し、我の所有・所用としてきた。我見を持つ者が存在するなら、その者に我見を断じさせる。意識と意根が我見を持つ故に、我見を断じるとは意識と意根の我見を断ずることを指す。我見を断ずるのは「偽りを去る」ことであり、明心は「真実を認める」ことである。意根と意識が偽りを否認して初めて、真実を認め得るのである。

九、色身は第八識でないか

世俗法の表相から見れば、色身は色法に相貌を有し、当然無色無相の第八識ではない。しかし聖義諦から見れば、唯識的に見れば、色身の実質は即ち第八識である。第八識が衆生の色身を生出した後、現在の色身は如何に存在するか?未だ第八識から生出されたものか?第八識は今も連続不断に色身を出生し続けているか?この問題に回答できなければ、如何にして色身が第八識でなく、第八識と異ならず、第八識と相在せぬと知り得よう?

第八識が最初に色身を生じた時、四大種子を輸送し、同時に意根の識種子を輸送し、更に意識の識種子を輸送した。色身出生後も、第八識は依然として不断に四大種子を輸送し続ける。これは第八識が依然として不断に色身を出生し続けていることを意味する。一旦第八識が四大種子の輸送を止めれば、色身は滅して存在しなくなる。

第八識は一切法を出生する。法が存在する限り、第八識は不断に法を出生し続ける。法出現後、後続の生は「執持と維持」と呼ばれるが、実際には依然として生であり断絶していない。四大種子は生出して滅し、再生出して滅する。この不断の生滅循環により色身は存続し続け、不断に変化する。第八識の色身への作用は、不断に四大種子と識種子を輸送・回収することである。第八識の一切法への作用は種子を輸送し、不断に法を出生し続け、即ち法の存在と変異を維持し、法に生住異滅を起こさせる。全体的に見れば、色身全体は第八識単独が七大種子を出力して構成したものであり、色身は第八識が単独出資した持株有限会社、或いは個人企業と呼び得る。収穫も利潤もないが、損耗もない。興廃成敗は第八識にとって無関係である。第八識は色身を我や我所と見做さないからだ。

第八識が全額出資して色身をコントロールする観点から見れば、色身は第八識でないか?否!色身は第八識と異ならない(第八識の所有でない)か?否!色身と第八識は相在せぬか?否!色身の種子は全て第八識に由来し、第八識の一部の種子が色身を構成する。色身は即ち第八識であり、第八識に属する所有物である。色身全体が真如であり、所謂一真法界である!世間の一切有為法、何れか第八識でないものがあろうか?全体即真如、一真法界なり!

十、色身と第八識の関係再考

色身全体が第八識の種子で構成され、第八識によって調節・制御されるならば、色身と第八識は相在せず、また不相在でもない!経営者が自社から離れ得ようか?しかし色身は真に第八識の単独出資によるもので、共同出資者や持株会社は存在しないのか?否!偽の経営者が表面上管理・制御している。彼は色身を我もしくは我所と見做し、自らが決定権を持つと錯覚している。

第八識は何に基づいて七大種子を出力し投資控股するのか?当然業種による。業種は何処から来るのか?意根が六識を主導し業行を造作することで得られる。意根が六識を主導して善業を造作すれば、良好な色身を得、利益を生む優秀な会社となる。意根が六識を主導して悪業を造作すれば、悪道の色身や多難な色身を得、損失を被る衰退企業となる。色身企業の興廃成敗は意根がリスクを負い責任を担い、利益も損失も意根に帰属する。

第八識は手を引いた経営者であり、投資後は一切関与しない。会社が資金を必要とする時は、在庫に余裕があれば追加投資する。言い換えれば、第八識の投資資金は全て在庫帳簿から支出される。在庫資金の元手は何処から来るのか?七識が創造した収益である。では色身企業の利益は庫房に蓄積されるか?蓄積されるが、経営失敗時の債務は意根が責任を負い、庫房の預金で債務を弁済する。庫房が空になれば色身は流浪乞食生活を送り、第二経営者意根と第三経営者六識は奴隷と化す。大経営者は一切の損失を被らない。

十、小乗正観における五蘊十八界非我の観察

五蘊非我を観察する際、まず色蘊が我でないことを観じる。この「我」を第八識に置換するならば、即ち色蘊が第八識でないことを観行することになる。問う:これを観察する目的は何か?如何に観察するか?観察する必要があるか?これは正観か?受蘊非我を観察する際、受蘊が第八識でないことを観じる。その目的は何か?如何に観察するか?観察する必要があるか?これは正観か?

想蘊非我を観察する際、想蘊が第八識でないことを観じる。これに如何なる意義があるか?如何に観察するか?観察する必要があるか?これは正観か?行蘊非我を観察する際、行蘊が第八識でないことを観じる。その目的は何か?観察する必要があるか?如何に観察するか?これは正観か?識蘊非我を観察する際、行蘊が第八識でないことを観じる。その目的は何か?これは正観か?観察する必要があるか?如何に観察するか?

更に六根非我を観察する際、眼根・耳根・舌根・鼻根・身根・意根が第八識でないことを観じる。これに観察の必要があるか?眼耳鼻舌身意が元来第八識でないことを知らぬ者がいるか?辛苦を重ねて禅定を修し「六根は第八識でない」という結論を導く。眼根・耳根・鼻根・舌根・身根が第八識でないことを知らぬ者がいるか?意根が第八識でないことを知らぬ者がいるか?六塵を観察する場合も同様、敢えて六塵が第八識でないことを観察する意義は何か?色声香味触法が第八識でないことを知らぬ者がいるか?観察する必要があるか?誰もが承知のことで、蛇足も甚だしい。五蘊の無常苦空無我と何の関係があるか?

小乗が五蘊を観行する真意は、五蘊十八界の無常性・変異性・空性・苦性を観じ、無始劫以来執着してきた「我」が存在せず、執着すべき我など全く存在しないことを確定し、我見を断ずる点にある。このような観行こそ正観であり、他を観ずる者は即ち邪観となる。

十一、小乗が断ずる疑いとは何か

小乗の断疑とは、仏が教示した四聖諦法が解脱を得られるか否かの疑いを断ち、自己が我見を断ったか否かの疑いを断ち、他人が我見を断ったか否かの疑いを断つことである。疑いを断った後は、ある者の説く仏法が衆生の我見断絶と解脱に資するか否かを正しく判断でき、自己及び他人の我見断絶の有無を正しく判断し、法・自己・他人に対する疑いを生じなくなる。しかし彼らは大乗法を証得していないため、依然として膨大な所知障を有し、大乗法に対する不確定な疑いを残している。

十二、諸行無常の四句偈の意味

諸行は無常なり、これ生滅の法なり。世間に存在し運行する一切の法は全て無常である。何故無常か?これらの行法は全て如来蔵に依って存在し、如来蔵が各種の業縁に依って顕現したものであり、因縁所生であるからだ。縁が尽きれば即ち滅び去る。故に生滅するものであり、生滅するものは即ち無常である。

生滅滅しおわりて、寂滅これ楽なり。修行して我執を断じ、三界世間法への全ての貪愛を断じた時、即ち四果阿羅漢を証得した時、世間の全ての行法を滅尽する能力を得る。四果阿羅漢がこれらの運行する全ての法を滅尽する時、阿羅漢の五陰十八界も滅尽される。しかし一つだけ滅びず、永遠に滅び得ないものがある。それが阿羅漢の第八識如来蔵である。五陰十八界を滅尽し、阿羅漢という人物も、六根六塵六識も、境界も識心も存在しなくなれば、苦受も楽受もなくなる。如来蔵も苦楽受を持たず、六塵を見ず一切法を見ない寂滅の境界にあり、一法も現起せず、静寂で空虚な中に一片の苦受も存在せず、方便的に寂滅楽と説かれるが、実際には楽も存在しない。

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