五蘊の観行による我見の断ち(第一部)
第三節 我見を断つ前提条件
一、証果の前提条件
聖弟子が五蘊を如実に観察し、五蘊の無常性・苦性・変異性・非我性を観じれば、五蘊無我・我に非ず・異我に非ず・相在せざる真理を証得できる。五蘊の空性を証得し初果を得る前提条件として、三十七助道の法を修了せねばならない。助道の法を未修または未了の者は五蘊無我を観行できず証果不可である。故に先ず四念処・四正勤・四如意足・五根・五力・七覚分・八正道等の三十七道品を修せねばならない。
三十七道品の修行次第は概ね次の如し:最初の五根(信根)より修を起し、五根が増長して五力を具足し、その後八正道に入り思惟修を発起し、七覚支を修習し、念覚支において四念処観を修習し善法味を得、四正勤を起し、最終的に勤苦修習を経て四神足の果楽を得、心自在解脱する。
三十七道品の各品は意識のみならず意根にも薫習せしめねばならず、意根も三十七道品を修習し完満具足し各道品を獲得し四神足を成就せねばならない。
意識の念力が意根を薫修し、意根の念力を具足させ信を成就させる。各法は最初意識の薫修引導により、意根が具足して初めて実証となり修行成就する。身心が実有でないことを証得して初めて解脱を得る。身心が実有でないと認めるだけでは解脱不可である。認めることと証得の間の距離は、修行者の修持程度に依り遠近有り得る。修持無き者の差は無量劫を要するかも知れない。
二、観行に必要な条件は三十七道品の具足である
我見を断ち小乗初果を証する時、同時に三縛結を断ち、三悪道の業を消滅させ、未来永劫三悪道に堕ちず。これが我見断ちの最初に得る自身の利益である。如何にして我見を断つか?世尊は『雑阿含経』において衆生に明瞭に説かれた。五蘊の虚妄性・無常性・空性・変異性・苦性・無我性を観察させ、五蘊を一つ一つその体性を観察思惟する。これを観行と称す。観行には相当な定力を必要とし、三十七道品を修めねば観行成就せず。十八界も一一に界を観行し其の虚妄性・生滅・無常・変異性を認め、最終的に五蘊十八界が真実の我でなく、私の所有にも属さないことを確信する。内心真に此れを認めた時、我見を断つ。此の後、内心深く五蘊を真実の自己と認めず、生死流転を縛る三縛結(我見・戒禁取見・疑見)を断つ。今後三悪道に堕ちず。
此の目標を達成するには、世尊が阿含経で説かれた四聖諦の法義を修学し通徹せねばならない。定力が整えば逐一観行する。これが我見断ちの大略たる道程である。其中八正道は必ず実践せねばならず、全ての身口意行が八正道に符合して初めて修行成就し、衆生が仰慕する聖賢人となる。識心有れば五蘊の受想行識有り。五蘊虚妄非我性を観行し、色身の虚妄性と識心の虚妄性を共に観行し、極めて確信を得た時、我見を断ち証果する。福徳等の因縁が具足すれば、如何なる法上でも観行思惟でき、我見断除も第八識証得も可能となる。福徳・定力・智慧・因縁時節次第である。
三、修行の過程有りて初めて修行の果有り
四聖諦・四正勤・四神足・五根・五力・七覚分・八正道等の内容は、見道前に修すべき法である。大乗小乗が修する三十七道品は大同小異で、修行過程も相似相通ずる。此の過程の薫習無く突然果が現れ聖人となるなら、其の果は極めて信頼性無く、結論も剽窃可能である。全ての知見は暗誦可能で、書籍を多読すれば暗誦でき、想像も可能である。
然し此の過程は誰も剽窃できず、見道証果の者必ず経過すべき道程である。各人の前世の根基に依り差異有り得る。前世既に証果した者は現世此の過程を速やかに通過し得るが、他者は不可で、逐一実践実証し各関門を突破せねばならない。大乗の果位も同様である。此の過程を経て初めて身心が転換し、証果時に大いなる解脱功徳受用を得る。此の過程を経ぬ者の得る果は空中の花の如く、観賞のみ可能で実用価値無く解脱功徳受用無し。プラスチックの果実は飾るのみで空腹を満たせぬ。
所謂実修とは大乗小乗の三十七道品の修行内容である。此の具体的な修行内容を離れれば実修に非ず、結論のみ過程無き修行も実修に非ず、理論のみの学習も実修に非ず。理論は幾地菩薩の理まで学べよう。仮に其の理を理解しても実証との間には一無量劫二無量劫の隔たり有り。一二の無量劫後の理論を今学び自ら掌握したと錯覚し聖人と自認する。前路を歩まず実際の修行過程を経ず実践せず、此の如き修行は夢幻泡影、空花を得て空果を結ぶのみ。
四、心行が八正道に符合して初めて証果可能
四聖諦の法において、苦集滅道も内法と外法に分かれる。道諦中の八正道も内法と外法に分かれる。八正道を修了し小乗三十七道品を修め尽くして初めて我見断ちの条件が満たされ、証果可能となる。心行が八正道に符合しなければ聖賢足り得ず証果不可である。八正道中の正定は意識の外定法と意根の内定法に分かれる。故に意根は必ず定と相応し、意根を定め尽くして初めて正智慧が生起し我見を断ち初果を証得できる。然らずんば全て偽果・模造果であり、観賞のみ可能で実用不可である。
五、極めて実践的な修行法有りて初めて実修となる
仏の説法には理論部分と実修部分が共存し、必ず弟子に修学の着手点を与える。仏陀自身が経験者であり最高峰に立ち、山麓の衆生を山腹・山頂へ導く能力を具えているからである。仏の説かれた法を修習することは、華麗高邁な理論のみで実践法無き崇拝に比べ遥かに優れる。実践可能な方法を提示できぬ者は、自ら修行成就せず其の道を通り得なかった証左である。追随する者如何にして其の道を通れようか?
実修無き者の説法は、衆生に天上の星を摘ませながら雲梯を与えず、後続の衆生は哀れに星空を仰ぎ見るのみ。如何に努力しても星までの距離は変わらず到達不能である。或る者は星を摘んだと錯覚するも、実は水に映った影に過ぎず真実の果実を得ていない。理論のみで着手法無き者には警戒すべきで、貴重な時間を空費すべからず。
真実の修行は一法門で三昧を証得すれば、他の如何なる三昧にも容易に切入可能である。三昧は相通じ方法も相通ずる。一つの方法で深入りすれば他法も掌握できる。恐るべきは決心して一法に専修せず、苦労を厭い精力を費やさぬこと。各方法を蜻蛉点水の如く浅く試すのみでは、如何なる法門も成就不可である。
六、四加行の円満も証果の前提条件である
小乗証果の鍵は七覚分の修持にある。七覚分は既に概説したが、具体的修行は個人の努力に依り、各種因縁条件を極力整えて初めて証果に一定の確信を得る。修行の過程は四加行(暖・頂・忍・世第一法)の過程でもある。文字理論を基に内心の加工過程を経る。加工過程において内心は漸次相応の変化を生起する。これは観行法義が徐々に意根と相応し、意根が漸次受容する過程である。当然最初は意識が先に受容し勝解を生起し、意根に伝達して受容させる。意根が受容すれば身心が漸次転換し、七覚分が逐一出現する。定覚分出現後に初めて大智慧が五蘊身心の法相を捨て、法を証して世間第一法を超越した初果人となる。身心に変化・転換無く七覚分成就せずしては、我見断ち証果不可である。
暖相:文字理論を透徹し自ら思惟観行し、内心に暖相が現れる。火花が散る如く、正しい理論に部分的に同調し、初歩的認知が生じ、興味が湧き更に内奥を探究したくなる段階。
頂:理論認知が一定水準に達し、五蘊身心の空を理解し五蘊認知の頂点に至る。此時完全に意識の認知と勝解であり未だ意根に至らず、内心に躁動が残り五蘊空の認知に安住できず、進退可能な段階。
此の段階で、或る者は内心に激烈な反抗が生じ思想が動揺し情緒が浮沈する。或る者は苦悩万分手の施しよう無き焦燥感や情緒低落に陥る。此の段階を過ぎれば情緒が正常化し、次の段階に進む。意識のみならず意根も安忍し、五蘊が何故空で不実なのかを深く探究する。
第三の段階は忍である。忍とは安住を意味し、空義に安住し五蘊の無常性を忍可する段階であるが、未だ真の証得ではない。証拠不充分で内心の考量不足の為、其の理を真に確認できず、只内心が躁動せず比較的安分である。証拠を求め五蘊身心の実質を現量観察する努力を続ける。此時身心の覚受は益々軽安となり、喜びが増し、禅定は向上し、智慧は深細・敏速化し、空の念は堅固となるが、未だ捨に住せず捨覚分は無い。
捨覚分が成就する時、内心の我という思想観念を捨て去り、内心空空となり五蘊空無常の観念が確立し、証拠が充分となり内心完全に五蘊空無我を認可する。第四段階の世第一法が成就し我見を断除し初果を証得する。
観行過程において身心が不断に変化する理由は、意識の勝解を通じ意根が四聖諦法を漸次体認し、従前の観念と相反し旧来の認知を覆す為である。意根が新大陸を発見すれば、身心に相応の変化と反応を促す。故に我見を断ち五蘊無我を証得するのは、必ず意根による証得である。
七、戒律保持は我見断ちに資する
色身を我と見做す我見には如何なる現れがあるか?現実生活において如何なる面の薫染が身見を増長するか?身見断ち難き原因は何か?前世に身見を断った者が現世で再び仏法に遇えば速やかに身見を断てる理由は?此等の現象を悉く抽出し、色身への愛着を少しずつ降伏させれば身見断ちは速やかになる。色身への一切の保護維持は悉く身見に起因する。色身に対し如何なる面の保護と愛着が存在するか?
出家者の戒律を考察すれば、仏陀が何故それ程詳細な戒律を制定したか理解できる。全て身見我見を降伏させる為である。或る者は此の理を解せず、戒律が自らを拘束すると嫌って受戒せず。仏陀の戒律を遵守すれば解脱を得られる。小乗の戒律は別解脱戒と称され、一戒を守れば一つの解脱を得る。故に出家修行すれば将来必ず四果阿羅漢を証得し解脱の日を迎える。出家の利点は多く、根本は清浄自在にして解脱に趣向することである。
現代人の生活様式は身見断ちを困難にする。生活享受を過度に重視し、快適さのみ求め他を顧みぬ。日常の衣食住行の各面、財色名食睡の各角度から自らの身見を観察すべし。色を見、声を聞き、触を覚え、香を嗅ぎ、味を嘗める面より観察を開始し、此等の面を殊更に重視し色身を過度に気遣い受用を講ずる傾向が強ければ、身見重きと認め調伏策を講ずべし。