五蘊の観行による我見の断ち(第一部)
第四節 五蘊と第八識の関係
一、花と花香による両者の関係の比喩
大乗の観点から言えば、五蘊と第八識は不異不異の関係を有する。色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊の生滅変異に真実性はなく、真我たる第八識ではない。しかし五蘊は第八識から出生し、第八識に由来するため、第八識と異ならない。五蘊を離れても第八識を見出せず、第八識と五蘊は互いに混合せず、第八識は五蘊中になく、五蘊も第八識中にない。
何故五蘊が第八識と異ならないのか?世尊は比喩を説かれた:例へば花の香りと花の関係の如し。花香は花に依存して存在し、花を離れれば花香はなく、花香あれば必ず花あり。しかし花は花香無くても存在し得る。花香を離れても花は存在する。花を見出すには、花香を辿れば必ず見出せる。花香を嗅げば花を見出せる。
花を第八識に、花香を五蘊に譬える。第八識を離れれば五蘊はなく、五蘊を離れれば第八識を見出せない。世俗法の角度から見れば、色蘊は第八識でなく、色蘊を離れても第八識を見出せない。受蘊は第八識でなく、受蘊を離れても第八識を見出せない。想蘊は第八識でなく、想蘊を離れても第八識を見出せない。行蘊は第八識でなく、行蘊を離れても第八識を見出せない。識蘊は第八識でなく、識蘊を離れても第八識を見出せない。五蘊は第八識と異ならず、第八識の一部分であり、第八識の属性である。第八識は五蘊上に顕現し、五蘊を離れれば第八識は顕現しない。第八識と五蘊は性質が異なり、色と声が混合できない如く相互に混合しない。しかし唯識種智の観点から見れば、五蘊の実質は即ち第八識であり、五蘊全体即ち真如である。
二、二者相在せず
世尊は最初に小乗法を説かれた時、既に衆生の五蘊中に不生不滅の第八識が存在することを明示された。小乗人は仏語を信じる故にこの心の存在を知り、我見を断ち五蘊の仮我を認めず、五蘊の滅が断滅でなく不滅の第八識が存在することを知る。五蘊と第八識は不異不異で、また相在しない。何故相在しないか?第八識は形相無きが故である。もし第八識が色身内に在るなら、身体を切断すれば第八識を見出せるが、これは不可能である。古代の国王は死刑囚を用いて実験し、囚人の身体を一片ずつ切断したが、完了しても第八識を見出せなかった。第八識は形相無く、身体と融合せず、肉眼で発見できず、菩薩の智慧眼によってのみこの無相の第八識心を識得・了知する必要がある。
三、相在せずの意味
相在せずに二義がある。小乗の観点からは、五蘊の我と我所が相互に混合せず、色蘊を我と見做せば受想行識蘊を我所と見做すが、色蘊と受想行識蘊は相互に存在しない。大乗の観点からは、第八識真如心と五蘊が混合せず、交雑せず、密着せず、接触せず、参与しない。種類が異なるため、第八識は形相無く体積・形相を持たず、色身と混在できず、虚空が身体と混合しない如く、虚空も如何なる物質とも相互混合しない。
第八識は形相無く、特定の場所に存在せず、身体の内外にも存在しない。しかし内外を自在に行き来し、色身の四方八方の事柄に対応でき、同時に八方に遍在して妨げられない。第八識が形相を有すれば妨げが生じ、一処に在れば他処に同時に在り得なくなる。これが第八識が一切法に遍在する理である。例えば娑婆世界に在る時、第八識は汝に随って娑婆世界に在り、同時に前世の他世界の死体や墓を執持し、或は極楽世界七宝池中に往生用の蓮華座を出生し、或は他人の夢中に入り、前世に戻り後世へ赴く。第八識は更に意根に随って他事を行い、例えば某人への報復・加持・利楽・教化・毒害などを成す。第八識は六根にも六塵にも六識にも在り、一法も彼の存在なきものはない。
四、五蘊と第八識の区別と連関
五蘊は生住異滅し、念念遷流変化し、無常にして変異する。故に苦である。無常変異即ち苦なり。我々は五蘊を把握できず、主宰できず、五蘊が漸次衰老し疾病が現れる時、無力で自らの意のままに変えることもできない。これが五蘊に対する我々の無力さであり、五蘊の不自在性・不能主性を示す。故に五蘊は我でなく、我の所有物でもなく、真実ではない。他方、五蘊は我々や外力によって変更可能である。例へば四肢を切断し身体を損傷し、美容術や各種手術により器官や物質を増減できる。この如き五蘊は変幻定まらず、固定不変でない。故に真実でなく永劫不変でなく、我ではない。
真実の我は永遠に恒常不変で、苦無く自在性を有し、独立自主である。我は永遠に不変で、如何なる外力も変え得ず、恒久一如にして苦受なく生滅しない。生滅変化する仮我と真実の我は不異不異の関係にある。仮我は真我を離れて存在できず、真我は仮我の上に顕現する必要がある(真我は仮我に依存せず存在する)。両者が一ならば仮我が滅すれば真我も滅する。二ならば真我無くとも仮我が存在し得るが、実際はそうではない。故に両者の間には区別と連関が存在し、不異不異の関係にある。
五、苦なるものは何故我でないのか?
真実の我は永遠であり、永遠なるものは清浄自在である。清浄自在なるものは寂滅楽である。苦は生滅変異するもので永劫不変ではなく、永劫存続するものは必ず清浄なる楽・真実の楽・寂静の楽である。生生世世断滅せざる法は必ず清浄なる楽法であり、断滅する法は必ず苦である。断滅せず変異せず永遠に存在するものこそ楽であり、我である。断滅変異するものは苦である。故に苦なるものは我でない。我は苦を有さず永遠であり、永遠に憂患無し。故に我に苦無し。
五蘊身中に第八識が断滅せず変異せず苦受無く存在する。五蘊に苦有る故に五蘊は我でない。しかし五蘊も我と異ならない。「異」とは二法を指し、差異有りて関連性無き法を意味するが、五蘊は第八識より生じたものであり、第八識の一部分の種子機能作用である。第八識と完全なる二体ではなく、第八識と不二法である。
六、真妄の対比
小乗の苦空無常無我は、大乗の常楽我浄に対応する。七識の無常——第八識の常、七識の苦——第八識の寂滅楽、七識の無我——第八識の我、七識の不浄——第八識の浄。
七、行蘊と八識の関係
五蘊中の行蘊は身行・口行・意行を含む。身行においては時に六識が存在し、時に六識が存在しない。一部の身行には六識が運行し執持されるが、一部の身行には六識の運行がなく六識の作用を必要としない。六識活動なき身行は、睡眠無夢時・昏迷時・無想定時・滅尽定時の四種の場合に存在する。これらの状況下では色身の運行が継続し、六識は既に滅して存在しないが、身体は存続し各種機能が運行する。死亡状態ではない。
この時、身体の各種運行は意根と第八識によって維持される。即ち身行は時に六識を離れて運行し得る。六識が存在する場合でも、一部の身行は六識と無関係に、直接意根と第八識によって維持・作用される。例へば呼吸・血液流動・心臓脈搏・細胞新陳代謝・飲食の吸収消化排泄・神経伝導など多数の機能作用である。
身根は第八識によって了別・執持されるため、意根は第八識の見分に縁って間接的了別を行い、直接身根に作用し主宰して身体に各種自然反応を起こさせる。例へば睡眠中の瞼の痙攣・各種神経活動・鼻水・内臓器官の活動・小児の夜尿など。
更に意根が直接決定を下し、六識が無自覚に身行活動に参与する例がある。運転中に緊急事態に遭遇し突然回避する場合、意識は分析判断に遅れ、ただ即座に了別し情報を意根に伝達する。意根は危険を認知し自己防衛の慣性に従い回避を決定する。手が突然熱さを感じ即座に振り払う場合、意識の思惟分析を経ず、了別情報を迅速に意根へ伝達する。虫が身体に落下すれば即座に払い落とし、意識の分析無く意根が認知し自己防衛措置を取る。蚊に刺されれば即座に叩き、意識の選択を経ない。口中に異物を感じ即座に吐き出し、意識の思惟選択を要さない。足が異物を踏めば即座に上げ、意識の判断分析を経ないなど、多くの場合六識の作用は顕著でない。
七、小乗と大乗における蘊の解釈差異
小乗の蘊は単に六識を指すが、大乗の蘊は極めて広範であり、時に第七識を含む。第七識も識であり識の機能作用を有するためである。第七識も運行する故に行蘊を有し、受想心所を具え受蘊・想蘊を有する。色蘊においても第七識の作用がなければ色蘊は存在せず、第七識は五蘊上で相応の作用を発揮する。従って五蘊は第七識意根をも包含し得る。
大乗の蘊は第八識をも蘊中に包含し得る。五陰七識の業行を蘊集し、未来に五陰の果報を生成するためである。第八識も識であり識の機能作用を有するが、その蘊は生滅性でなく苦でもない。前七識とは大きく異なる点である。五蘊上には常に第八識の運行が存在し、五蘊は第八識を離れれば存在し得ない。第八識自体が五遍行心所法を有するため、第八識も受想行を有する。ただし第八識の受想行は滅尽できず、永遠に第八識の運行に随伴する。前七識の蘊の機能作用とは根本的に異なり、極めて大きな差異を有する。
悟前の凡夫衆生及び地前の菩薩はこれらの法を観行できず、粗浅な経論ではこれらの甚深なる法義を説かない。さもなければ衆生が堪え得ないためである。故に我々は大乗法の内実が極めて広大であるから「大」と称し、包含する範囲が広大であるから「大」と称し、仏地の一切法に直通するから「大」と称し、究竟円満に達するから「大」と称し、十方世界を包含するから「大」と称し、最終的に一真法界に帰結するから「大」と称するのである。一真法界を超越する存在は最早存在しない。