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五蘊の観行による我見の断ち(第一部)

作者: 釋生如 分類: 二乗の解脱 更新時間: 2025-02-24 閲覧回数: 5576

第三節 四聖諦と四相

一、四聖諦の内容は:苦諦、苦集諦、苦滅諦、苦滅道諦。

苦諦とは、苦の道理と真理である。衆生には三苦・八苦及び無量の苦があり、生々世々に六道で生死輪廻し、絶えず生老病死や無量の憂悲苦悩に苛まれる。苦諦は仏の聖弟子のみが明らかにし認識できる真理であるため「苦聖諦」と呼ばれ、苦聖諦を知って初めて道を修し、苦集を断じて苦を滅ぼすことができる。

集諦は「苦集諦」とも呼ばれる。衆生が無量劫にわたって染汚業を造り、生死の業種を積集し、後世に苦受の業報を感召する真理が苦集諦である。苦はどのように集まり、どのように感召されるのか。衆生に貪愛の心があるため、貪愛が絶えず愚痴の煩悩業を現行させ、造られた貪愛の業行が種子として集積され、将来業種の縁が熟す時に苦の業報が現れる。故に仏陀は「貪愛の集積こそが苦の集積である」と説かれた。修行によって貪愛を滅ぼすことで初めて無量の苦を滅ぼせる。

滅諦とは、苦を滅ぼす方法と真理である。つまり苦は一定の方法で滅ぼすことが可能であり、永遠に不滅ではない。道を修して我見を断ち、続いて初禅定を証得すれば欲界の貪愛を断ち、さらに色界・無色界の貪愛を断つことで、三界を出離し三界の一切の苦受を滅ぼす力が得られる。

道諦、道とは八正道(正語・正業・正命・正見・正念・正精進・正定・正思惟)を指す。衆生が八正道を修行し、小乗の菩提資糧を円成した後、五蘊を観行すれば我見を断除し、我執を断じ、五蘊を滅尽させて三界を出離し、無余涅槃に入ることができる。

四果の阿羅漢は無余涅槃に入る前、有余涅槃に留まる。有余とは未だわずかな苦を受ける可能性があることを意味し、五陰の色身が存在するが故に避けられない苦受がある。例えば、暑さに耐える苦受、蚊に刺される苦受、病の苦受、身体の不調の苦受、他者からの軽視を受ける苦受など、これらは軽微な苦受であり、彼らの生死輪廻からの解脱に影響はない。五陰が存在する限り苦受はあり、大乗に回心しない阿羅漢はこの点を理解し、いかなる微細な苦も耐えず、再び生を受けた後に迷い染汚業を造作することを恐れるため、五陰を滅ぼして無余涅槃に入ることを強く望む。涅槃に入れば一切の苦受が滅び去るのである。

二、四相の内実

四相:我相・人相・衆生相・寿者相。我相とは五陰相(色陰・受陰・想陰・行陰・識陰)及び十八界相(六根・六塵・六識)を指す。色陰は無から有へ生滅・変化・転易し、易とは変転を意味し、無常・苦・空であるため我ではない。受陰は生滅変化し無常で因縁により生じ、久住せず苦・空であるため我ではない。想陰は生滅・変異・無常・苦・空であるため我ではない。行陰は生滅・変化・無常・苦・空であるため我ではない。識陰は生滅・変異・無常・因縁生・苦・空であるため我ではない。

六根:眼耳鼻舌身意の六根。前五根は生滅あり変異・無常・因縁生・苦・空であるため我ではない。意根は無生有滅で刹那生滅・変異・無常・苦・空であるため我ではない。六塵:色声香味触法の六塵は生滅・変異・無常・因縁生・苦・空であるため我ではない。六識:眼耳鼻舌身意識の六識は生滅・変異・無常・因縁生・苦・空であるため我ではない。

人相:人類衆生の五陰相・十八界相も同様に虚妄・生滅・変異・無常・苦・空・因縁生であり、我ではなく非我・不異我・不相在である。五陰は我(生滅する意根)ではなく、我の外の我所でもなく、我は我所の中になく、我所は我の中になく、我と我所は混在しない。大乗法の観点では、五陰と真実の第八識は一でもなく異でもなく、混在せず極めて密接な関係を持つ。

衆生相:十方世界の全ての衆生(聖凡を問わず、どの道の衆生でも)の五陰十八界は生滅・無常・変異・因縁生・苦・空であり、我でも我所でもなく、我と我所は混在しない。しかし大乗法の観点では、五陰と第八識は一でも異でもなく、第八識とも混在せず、極めて密接な関係を有する。

寿者相:衆生に現れる寿命の長短、生命の年輪。細菌の数時間の寿命から長寿天の八万大劫、及び分段生死を超えた八地以上の菩薩たちの寿命に至るまで、全て虚妄・不真実・無常・空であり、我でもなく私の所有物でもない。

三、如何にして四相を無くすか

四相を無くすとは、無我・無人・無衆生・無寿者を意味する。五陰十八界という仮の我は、第八識が様々な縁によって変生したものであり、虚妄・変異・無常・空・苦性であるため無我である。この結論を得るには深く細やかな観行を行い、心の底から五陰が真に我ではないことを確認する必要がある。我が虚妄であるならば、同様に他人も虚妄であり、全ての衆生も虚妄で非我である。従って、衆生の五陰に依存する寿者相も当然不真実で虚妄となる。定力を修めてこれらの理をよく観行することは重要であり、そのためには多くの法を修し、八正道及び三十七品を修めねばならず、ようやくこれらの法が空であることを証得できる。口先で空を説いても無駄で、単なる口頭禅に過ぎない。

凡ての相は虚妄であり、第八識が幻化したものであり、一切の相には自ら存在する真実の体性がなく、我相・人相・衆生相・寿者相も含まれる。解脱を得たいなら虚妄の四相を離れ、四相を執取してはならない。四相を離れるとは、撥離し認取せず、心の中で四相を真実有と認めず、四相が幻化不実であり存在するのは仮合であることを証知することを指す。

四相を離れることは四相を滅ぼすことではない。四相を滅ぼせば衆生は消滅し、如来蔵のみが残り衆生が存在しなくなり、以降何も為すことができなくなる。四相を離れる道理は我見を断つことと同じで、我見を断つとは五陰身という仮の我を滅ぼすのではなく、五陰を我と認めず知見を正すことである。仏教で説く「断」とは知見を改め、識心の認知を変え、顛倒見を正し、正知見を具足させることを指す。我々が仏法を学ぶ際、五陰七識の仮の我を滅ぼすことはできず、まして四果阿羅漢の位に至らぬ限り誰も仮の我と四相を滅ぼせない。

衆生の心には皆四相があり、色身を我と認めたり、感受する心を我と認めたり、思惟する心を我と認めたり、行住坐臥や言語笑いを為す者を我と認めたり、六塵を分別する者を我と認めたりする。これらの法を我と認める時、即ち私と同じ者を人と認め、私や人と同じ者を衆生と認め、私・人・衆生の一期の寿命を寿者相と認める。こうして四相が具足するのである。

四、真如と聖人の七識は四相を取らない

阿羅漢や菩薩たちは修行を通じて四相を破り、心に四相がなく、内面で四相を真実・実有と認めない。もし五蘊七識が修行せず法を観ずれば無我を証得できず、四相を無くすことはできない。一方、真如は修行を必要とせず、元来四相がなく五陰相も十八界相もなく、自らを真実の我とも認めず、主宰せず自我の心行もなく、我相も取らない。従って人相・衆生相も取らず、まして寿者相も取らず、寿命も持たない。なぜなら真如は常に不生不滅だからである。

『金剛経』に「もし心が相を取れば即ち四相に執着し、法相を取れば即ち四相に執着し、非法相を取れば即ち四相に執着する」とある。真如は一相も取らず、取る心行もなく自らさえも取らない。逆に妄心である七識は常に取り続け、絶えず四相と六塵相を取り、一切の相を取るため生死が絶えず、苦悩禍患が尽きない。要するに「取る心」こそが妄であり、真如は取らず四相もない。

五、無我の意味

無我とは二つの意味を持つ。第一に無常で恒一でないこと、第二に主宰できず自在でないこと。第一の意味は理解し易く、所謂「我」が生滅変化して止まず、永遠に恒一不変でいられないことを指す。第二の意味はやや難解で、五陰は自ら主宰できず、自身の出生・生長・滅亡を決定できず、生も死も主宰できず、自らの業力と阿頼耶識によって決定されるため、五陰は不自在で業力と阿頼耶識に支配されている。

ただし些細な事柄については意根が主宰すると言える場合もある。例えば食事時に食べるか否かを選択したり、現状の条件下で何を食べるか選ぶことなど。しかし背後にある因果から見れば、これも自らの福徳によって決定される。福徳が極めて薄ければ、食べるか否か・何を食べるかは自分で決められない。各時代に餓死者や今日食べても明日の食がない者が存在するように、業力が現前すれば真に選択の余地はない。表面上主宰できるように見える事柄も、背後には因果と業力が支え作用している。福報が不足している時、生死を脱することを主宰しようとしても叶わず、業種業縁の束縛を受け生死の苦報を受ける。この時、意根はもはや主宰できないのである。

六、五陰身はなぜ自主的でないのか?

主宰できない我とは、生死に自在でない五陰身を指す。五陰身は自主的に存在できず、阿頼耶識に依存しなければ存在せず、五陰も自主的に滅びず、阿頼耶識と業縁に依存して滅びる。生滅があることは即ち不自主・不自在である。一方、阿頼耶識は永遠に自主的かつ自在である。なぜなら不生不滅であり、他法によって決定されないからである。他方、五陰身にも一定の主宰性があり、完全に生死業縁に流転するわけではない。そうでなければ我々が仏法を学ぶ意味も必要性もなくなる。五陰中の第七識は八識の中で主宰識であり、五陰の身口意行を主宰し、身口意行の造作を決定する。もし意根が主宰しなくなれば、五陰は身口意行を持たず、阿頼耶識も休息する。

業行の面では、意識と意根が共同で努力し生死業報を変え、修行に励んで無明煩悩を除去し、生死の束縛を解脱できる。これらは全て能動性を持ち、主宰して決定権を持ち、最終的に一切の無明を断除できる。意識は仏法を修行し、常に意根を薫染させ、意根を少しずつ業力の束縛から離脱させ、無明と煩悩の羈絆を除去し、善業と清浄業を造作するよう選択させる。これにより未来の果報はますます殊勝となり、遂には仏陀となるのである。

七、我執と法執の概念

我執とは五陰の自我への執着であり、五陰身を我及び我所と執着することである。この執着を断じた者が四果阿羅漢であり、意根は三界世間法を貪執せず、寿命尽きれば自らを滅ぼして無余涅槃に入り三界の苦を解脱する能力を得る。法執(法我執)とは、意根が蘊処界が和合して派生した一切法あるいは特定の法を我及び我所と執着することである。この法我執は、初地以上の菩薩が識を智に転じ始めた段階で初めて徐々に断除できる能力を獲得する。

八、観行の意味合い

観とは、観察・観照・思考・参究・思惟・思量・思念・想・推理・推想を指す。現量・比量・非量の観に分けられ、非量の仮定・仮想も使用可能である。結果が現量であれば正観となり、非量で事実や真理に合致しなければ邪観となり、俗に「でたらめな空想・取り留めのない妄想・天馬行空の憶測」と呼ばれ、根拠なく論理に合わない思惟活動に属する。

正観は事実に合致し、正しい方向性を持ち、合理的で実践可能な方法を備えた観である。例えば観像念仏では、面前に仏像を指針とし参照目標を置き、観の方向性を正しく保つ。観の結果は禅定力・観慧・福徳などの条件が具足するかによる。また『観無量寿経』の十六観では、各観に仏の指導と説明があり、正しい参照目標と明確な目標・方向が示され、観の成否は個人の定慧福徳などの条件次第である。

行とは、運動・行為・変化・遷流・流転を指し、動的で静止しない全てが行の範疇に入る。事物の発展過程で未完了かつ変化進行中の状態も行に属する。観行における「行」は主に心念の転動・心所法の運行を指す。思心所の「思」にも行の内実があり、択択・決定・造作の意味に加え、主に思量性・計較性を持つ。俗に「琢磨・量度・比量・权衡」と呼ばれる。

想心所の「想」も行の範囲に属し静止状態ではない。想には了別・分別・取相・執取の機能がある。相を取った後、思心所が作用し執取した法相を思量し、利害・軽重・緩急を权衡して択択する。思量が暫く結果を出さない場合を「決心がつかない」と言い、意根が暫く主張を持たず決定しない状態を指す。思量と想の違いは深さにあり、想は相に対する浅層的な了別で相分に密着し、相分を取れば感受が生起する。その後も相分を中心に処理方法を考慮し利害を权衡し、造作を決定するまで思量が続く。

観行全体は意識と意根の機能作用である。意識による観は浅い定中でも可能で、禅定のない散乱観もあり、観の層が浅く究竟せず論理性を欠く場合もある。たとえ論理的でも意根の観行を代替できず、あくまで意根の観行を導く役割を果たす。最終的には主人公である意根自らが観る必要がある。なぜなら意根は主宰識であり、意根が直接観て初めて真の見解となるからである。ただし意根の観行には禅定が必要で、深ければ深いほど良い。さもなければ縁となる法が多く一心に観行できず、如実の観行智慧を得られない。

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