衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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五蘊の観行による我見の断ち(第一部)

作者: 釋生如 分類: 二乗の解脱 更新時間: 2025-02-25 閲覧回数: 43

第二節 大小乗の異なる修行目標

一、仏の悟った法は縁起性空ではない

世尊が阿含経で説かれた十二因縁法は、声聞縁覚が修する解脱の法であり、大乗如来蔵法に関わらず、直接成仏の法でもない。故に十二因縁法は究竟の成仏法ではなく、究竟の仏法は虚妄法の一切法空を説くのではなく、不生不滅不空なる如来蔵の全ての功徳体性を説くものである。声聞縁覚が十二因縁法を修し終えても、縁起性空を証得するのみで、五陰世間の一切法が因縁所生であること、如来蔵という因と無明業種に依って一切法が生起することを知るが、大乗の如来蔵実相心を証得する能力は未だなく、従って大乗実相の智慧を具えていない。

十二因縁が依存する各種の縁が如来蔵から出生したものであるならば、これらの縁は皆生滅するもので真実でなく、幻化の空相である。声聞縁覚はこの理を証得すれば解脱を得て生死輪回の苦を出離できる。しかし彼らは未だ大乗法を修証しておらず、如来蔵の成仏法を理解せず、三乗仏法の中二乗のみを修証し、最上乗法は未だ理解も修証もしていない。この状態で三界を出離しても、無始無明と塵沙無明は破られず断たれず、無明習気及び煩悩随眠も断除されていない。故に声聞縁覚の修証境界は仏と比べて依然として甚だ遠い。

従って、仏陀が成道時に悟ったのは縁起性空の二乗法ではなく、最上乗の如来蔵法である。仏陀が明星を夜睹した時に眼見した仏性こそ、最も真実なる仏性であり、これが仏地における見性である。仏の大円鏡智が現前し四智円明となって初めて仏道を成就するのであり、世人が誤解する縁起性空のような浅薄な二乗法ではない。両者の本質は甚だしく異なる。もし仏陀が縁起性空の二乗法のみを悟ったとするならば、仏陀は衆生に大乗の真実なる如来蔵成仏法を教導できず、仏法は不完全で重大な欠陥を抱え、衆生は真の最大究竟の利益を得られないことになる。しかし仏陀は法輪を転ずる後期において、一貫して衆生に大乗成仏法を教導されている。これにより仏陀の成道時の悟りが決して縁起性空でなかったことが明らかである。現在の衆生は仏法を甚だしく誤解し、浅薄な知見に陥り、縁起性空を仏法の中心・重点と見做し、万法の根源と結び付けず、万法の由来も世界の本源も知らない。これこそ仏法の流弊である。

二、小乗から大乗に回向する阿羅漢

「小」とは心の広さが小さく、他者への配慮が少なく、他者の利益を考えることが稀であることを指す。「乗」は乗り物・運搬具・車両の意であり、小乗とはその法が浅く究竟的でなく、救済する衆生の根機と数量が限定的であることを意味する。「大乗」とは心の広さが大きく、修行が完全に個人のためではなく広大な衆生の利益を考え、法が大いで深遠であり、救済する人数が無量かつ究竟的であることを意味する。

声聞縁覚の心構えは、自己の苦を離れ解脱を得ることのみを求め、他は一切顧みない。彼らは衆生の苦も仏教の発展も仏恩への報謝も考慮せず、ただひたすら無余涅槃を目指し、自らが三界に再び現れ身心の苦を受けることのないよう望む。この心の狭さ故に小乗人と称される。一方、大乗菩薩たちは心が広大で、自利のために無上の大涅槃を求めるのみならず、全ての衆生を率いて生死の大火坑から脱出させ、無上の仏道に向かわせ究竟的涅槃を証得させようとする。仏道を成就し究竟の解脱を得るには、小乗人は小乗心を大乗心に回向し、大乗の菩提大道を歩み、小乗の細道を捨てねばならない。

声聞縁覚の類いの修行者は二種に分かれる:大乗に回心可能な不定性声聞縁覚と、大乗に回心しない定性声聞縁覚である。大乗に回心する声聞縁覚は、一定の修行段階に達し自心が安穏を得た後、衆生の苦悩が絶えないのを見て、衆生のために無余涅槃に入らない決意を起こす。或いは仏が大乗法義を開示するのを聞き、大乗を欣求して無上菩提を追い求め、明心見性を志し如来蔵法を修学し、もはや無余涅槃を選ばず、世に留まり修行を続け自利利他を行う。

二乗人が大乗に回心する契機は、証果前・証果後など各修行段階で起こり得る。これは各人の因縁の影響力による。仮に小乗に心を置かず、たとえ小乗の四聖諦法を修して阿羅漢果を証得しても、ただ個人の解脱のみを求め無余涅槃に逃れて苦を避けようとしない者は、そもそも小乗人とは言えず、回小向大の問題自体が成立しない。声聞人の利己的心構えこそが、小心を大心に回向させ、大いなる心で無量の衆生を利益する大乗菩薩となる必要性を生じさせるのである。

現世末法において、凡夫衆生は我見が深く、我執は更に重い。もし小乗の四聖諦法を修せず、先ず我見を断除せねば、大乗法も修め難い。小乗法を修せず我見を断たず、直接大乗法を修し参禅に励んでも、仮に密意を参究し如来蔵を悟得したとしても、我見は未だ完全に死滅せず、徹底的に断じ切れない。この我見が死滅しない限り、我執・私心・慢心が絶えず作用し、貪瞋痴の煩悩も依然として重く、大乗の道業において大した進歩が得られず、往々にして原地踏歩に終始する。

大小乗の果位は断絶したものではなく密接に連関している。小乗の果位が向上しなければ、大乗の果位も停滞する。この状態で一生を修行しても、実際に受用できるものは少ない。理屈を滔々と述べ天華乱墜の如く説けても、実際の修証との隔たりは依然として甚だ大きく、表面的に示される修行の有様とは異なる。我々現代末法の衆生は業障深く、我見・見取見が極めて重い。小乗の基礎を確固たるものとし、五陰を完全に死滅させ永く断除無余せしめねばならない。貪瞋痴煩悩の降伏と断尽は速やかに達成され、かくして自ら生生世世に大いなる利益を得、菩薩としても軽安快楽を得、更に多くの悪業悪行を造作して自らの道業を遮障することなく、重く大きな苦報を受けることもなくなる。我々は智慧を持ってこの理を仔細に思考し、自らに最有利な選択を為すべきである。小乗法の修行を軽視せず、高遠を好んで現実を顧みず、着実に一歩一歩前進すべきである。これこそ自らの道業増進に最も資する道である。

三、菩薩と阿羅漢の異なる修行目標

世尊は阿含経において「貪愛の集まりは即ち苦の集まりであり、貪愛の滅びは苦の滅びである」と説かれた。苦滅による解脱を得る前提条件は、四聖諦の理を修習し苦諦を了知し、集諦を断除し、八正道諦を修して苦を滅し、苦滅諦を証得することにある。苦滅諦の証得は智慧解脱者たることであり、解脱は我見断絶から生じる。我見を断じた後、初めて我執を断尽し、我執を断じた後心は解脱を得る。以後五陰世間の妄法を執取せず、自由人となる。

阿羅漢は解脱を得て心が自由となった後、命終と共に自らの五陰を全て滅し、意根も滅する。未来において三界世間に五陰身を現じ苦を受けることはなくなり、阿羅漢たる衆生は三界から消滅する。彼らは大乗の甚深般若智慧を得るため仏法を修学し続けることも、自らの修行で衆生を利楽することも、仏道を成就することもできない。一時的で不究竟な解脱を得たに過ぎない。これは智慧を欠き慈悲心が薄く私心が強く、衆生の苦を悲憫しないためである。故に仏は彼らを小乗人・焦芽敗種と説かれる。

菩薩たちは明心して第八識を証得すると共に我見を断じ、第八識が真実で五陰が虚妄であることを知り、五陰を我と認めなくなる。以降の修行は大小乗を同時に修し、小乗解脱道においても貪愛を滅して解脱を得るが、菩薩たちは五陰身を永遠に滅して用いず、善く五陰身を用いて仏法を修学しつつ衆生を利楽する。三界世間に生きながら心は自由解脱を得る。菩薩たちは大乗修行の道を歩み、慈悲心が厚く自利利他を誓願する。心の解脱を得ても永遠に滅度せず、阿羅漢のように生死の苦を恐れて自らを滅し未来に三界世間に出生せず、自利も利他もできなくなることはない。菩薩が滅度を取ることは菩薩戒に背き、菩薩の慈悲心に反し、諸仏の教導に悖る。故に解脱を得た菩薩は命終に際しても思惑煩悩の一端を残存させ、三界に出生し続ける。これを「留惑潤生」と称する。

四、大小二乗の二種の解脱

解脱には二種ある。一つは二乗無学聖人たる阿羅漢と辟支仏の解脱、もう一つは大乗菩薩の解脱である。小乗の解脱とは、三界世間法への貪愛が完全になく、貪瞋痴の無明煩悩が全て断尽され、三界の生死に繋縛されず、自らの五陰十八界を滅し無余涅槃に入る能力を有する状態である。四阿含経の苦集滅道四聖諦理を修学し、五陰無我を証得し我見と三縛結を断除した後、初禅を証得し、更に貪愛と我執を断じて解脱を得、三界の生死輪回を出離する。

中乗の辟支仏たちは十二因縁法を修行し無明を断尽することで、三界生死輪回を出離し、自らを滅尽した後再び三界に出生せず解脱を得る。以上の二種の解脱は、五陰が修行を経て初めて得られる解脱であり、本来存在する解脱ではなく、究竟的で徹底した解脱ではない。この解脱には解脱色がなく(最終的に色身を滅するため)、また全ての無明が断尽されておらず、無始無明が未だ破られず変易生死が解決されていない。真の生死大事が解決されていないため、究竟的解脱とは言えない。

大乗の解脱は、菩薩が六波羅蜜を修行し参禅によって本来解脱した如来蔵心を証得し、明心見性後に自由自在なる如来蔵に依止することで、五陰もまた貪瞋痴無明煩悩を断尽し三界世間への貪愛を断除する。最も重要なのは法執をも断じ、漸く究竟解脱を得て生生世世解脱した五蘊身を保持し無量の衆生を利益することである。菩薩たちは煩悩を断尽するのみならず煩悩習気をも断尽し、無始無明と塵沙惑をも全て断じ、分段生死と変易生死をも完全に断尽し、仏地の無住処涅槃を証得して究竟解脱を得る。これが真実にして最終的な究竟解脱であり、この解脱には解脱色が存在する。仏陀はこの解脱色を用いて無数の分身を現じ有縁を広く救済される。如来蔵を証得し明心見性した時、如来蔵が不生不滅で三界に属さず生死に繋縛されず本来解脱しており、五陰が如来蔵に依止することで本来解脱していることを知るのである。

五、声聞人は真我第八識を実証できない

信じることは証得と同じではない。仏語を信じることは仏語を証得することと同じではない。五蘊無我を信じることは五蘊無我を証得することと同じではない。第八識が真我であると信じることは、第八識が真我であることを証得することと同じではない。信には更に段階があり、浅層は意識の信、深層は意根の信である。意根が信じても証得と同義ではなく、信と証得の隔たりは甚だ大きい場合も小さな場合もあり、誰が信じるかによる。

声聞人は仏語を信じ不滅の真我第八識が存在することを知るが、心量の問題で実証できず、一旦実証すれば即ち大乗見道の菩薩となる。声聞人は菩薩と等しからず、声聞人が無余涅槃に入らぬ決意をすれば通教の菩薩となり得るが、別教の菩薩ではない。第八識を証得して初めて別教の菩薩となる。声聞人は仏語を聴聞した時点で第八識真我の存在を知るが、詳細な内容は知らない。第八識に対する実際の観行がなく、五蘊と第八識の真実の関係や、第八識が如何に五蘊の存在と作用を出生・維持するかを知らない。

声聞人は仏語を信じた後、禅定において五蘊十八界の無常苦空無我性を具体的微細に観行し、最終的に「五蘊十八界は確かに苦空無常無我である」という結論を得る。これにより五蘊を我と見做す我見を断除し法眼浄を得、初歩的な解脱功徳を受用する。声聞人は第八識を実際に観行せず、観行能力もないため、「五蘊は第八識であるか否か」を確定的に結論付け証得できない。大乗菩薩が第八識を証得して初めて、五蘊十八界の我が生滅する仮我であり確かに第八識でないことを如実に観行し得る。それ以前は全て仏語を信じ、仏陀の説く如実を信じるに過ぎない。

菩薩が無生法忍を証得し道種智を具える時、漸く五蘊十八界が実は第八識そのものであり、第八識の一部分の機能であることを如実に観察し得る。第八識が如何に具体的に識種子と四大種子を流注し、如何に業種子を流注して連続不断の五蘊十八界の機能を形成するかを現前観察し、漸く一切法が全て第八識であることを証得する。これにより衆生が一真法界に在ることを知る。それ以前は相似の理解・推論・推測・想像と仏語への信頼に過ぎず、実証とは言い得ない。

五、声聞人は真我第八識を実証できない

信じることは証得と同じではない。仏語を信じることは仏語を証得することと同じではない。五蘊無我を信じることは五蘊無我を証得することと同じではない。第八識が真我であると信じることは、第八識が真我であることを証得することと同じではない。当然、信には段階があり、浅層は意識の信、深層は意根の信である。意根が仮に信じても証得とはならず、信と証得の隔たりは甚だ大きい場合も小さな場合もあり、誰が信じるかによる。

声聞人は仏語を信じ不滅の真我第八識の存在を知るが、心量の問題で実証できず、一旦実証すれば即ち大乗見道の菩薩となる。声聞人は菩薩と等しからず、声聞人が無余涅槃に入らぬ決意をすれば通教の菩薩となり得るが、別教の菩薩ではない。第八識を証得して初めて別教の菩薩となる。声聞人は仏語を聴聞した時点で第八識真我の存在を知るが、詳細な内容は知らない。第八識に対する実際の観行がなく、五蘊と第八識の真実の関係や、第八識が如何に五蘊の存在と作用を出生・維持するかを知らない。

声聞人は仏語を信じた後、禅定において五蘊十八界の無常苦空無我性を具体的微細に観行し、最終的に「五蘊十八界は確かに苦空無常無我である」という結論を得る。これにより五蘊を我と見做す我見を断除し法眼浄を得、初歩的な解脱功徳を受用する。声聞人は第八識を実際に観行せず、観行能力もないため、「五蘊は第八識であるか否か」を確定的に結論付け証得できない。大乗菩薩が第八識を証得して初めて、五蘊十八界の我が生滅する仮我であり確かに第八識でないことを如実に観行し得る。それ以前は全て仏語を信じ、仏陀の説く如実を信じるに過ぎない。

菩薩が無生法忍を証得し道種智を具える時、漸く五蘊十八界が実は第八識そのものであり、第八識の一部分の機能であることを如実に観察し得る。第八識が如何に具体的に識種子と四大種子を流注し、如何に業種子を流注して連続不断の五蘊十八界の機能を形成するかを現前観察し、漸く一切法が全て第八識であることを証得する。これにより衆生が一真法界に在ることを知る。それ以前は相似の理解・推論・推測・想像と仏語への信頼に過ぎず、実証とは言い得ない。

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