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五蘊の観行による我見の断ち(第一部)

作者: 釋生如 分類: 二乗の解脱 更新時間: 2025-02-25 閲覧回数: 2211

第三節 五蘊は第八識から出生する

一、色蘊は第八識から出生する

色蘊は五蘊の一つであり、生滅虚妄で変異無常の苦なる空であり、真実でない。第八識が幻化したもので、第八識が衆生の業種業縁に基づき衆生の色身を顕現させて初めて色蘊が存在する。色蘊は何らかの縁によって自ら出生できるものではなく、父母が一手に取り仕切って生むものでもない。父母は色蘊出生の一助縁に過ぎない。第八識が父母縁を藉りて受精卵に入住し、衆生の業種に従い母血を胚胎に変造することで色蘊となる。色蘊は自然に有るのではなく、理由なく存在するのでもなく、第八識が縁に依って顕現したものであり、第八識が有する属性の一つである。

色が第八識の変現したものであるならば、第八識の一部分であり、第八識と不異不異の関係にある。故に色即ち是れ空であり、空性心第八識の性質である。此処の「空」とは空性心第八識を指し、「色」は色蘊である。色蘊は即ち第八識であり、全体が第八識の機能作用によって顕現したものである。此処の「空」は虚空を指すのではない。虚空は仮名に過ぎず、物質の存在しない領域を仮に虚空と称する。物質を置けば虚空は消滅する。故に虚空には来処も去処もなく実体性がなく、真実に存在する法ではない。

二、五蘊が第八識から出生する原理

七つの識心の体性を明らかにすることは極めて重要である。五蘊の一切の活動は、七つの識心と第八識が共同で和合して運営し作り出したものである。七つの識心が色身に加わることで五蘊の活動が生じる。もし色身に七識心の運行がなければ、色身は死体となる。識心が色身に存在する時、色身は即ち色蘊となる。色身内の五根が内五塵に触れ、意根が同時に五塵上の内法塵に触れると、六識心が現れる。六識が更に六根六塵と触れ合うことで、識心は感受し、受蘊が生じる。受蘊は意識心の感受を主とし、前五識の感受を補助とする。識心がなければ受蘊は存在しない。

六識が六塵を了別し、六塵の相を執取するのが想である。続く思惟・微細な分別・判断・打算など全てが想であり、想蘊は意識心を主とする。五識もまた了別取相の想蘊活動を有する。行蘊とは識心の運行であり、念念遷流変化する身口意の一切の活動である。時間の経過、場所方位の変化、色身における心拍・呼吸・脈搏・血液流動など、運行し変化する一切の静止しないものが行蘊に属する。識蘊とは識心の分別機能体性である。

もし七識心が色身に加わらなければ、五蘊の活動はなく、色身は衆生ではなく、殺害も殺生に該当しない。しかし第八識が七識心の種子を輸送しなければ、七識心は発生せず、まして五蘊の活動など存在し得ない。第八識が七つの識心と協調しなければ、五蘊の活動はなく、色身は死体となり木材となる。これにより、五蘊の活動は第七識の制御下において第八識から出生することが分かる。

三、五蘊空の内実

五蘊の苦・空・無常・無我において、五蘊の「空」とは五蘊が存在しないことや現象すら消滅することを指すのではない。五蘊は現象的には存在するが自性を持たず、魔術師が幻化した城郭のように実質も自在性もなく、本質は如来蔵性であることを意味する。五蘊の一切の現象は全て如来蔵によって顕現されたものであり、故に五蘊は空である。

五蘊の「空」は、五蘊を極微細な部分に分解して最終的に無に帰するという理でもない。五蘊は色法と心法で構成され、心法は微塵に分割できず、たとえ色身を極微細な微塵に分けても微塵が空無に転換することはない。微塵と虚空は種子が異なるため相互変換できない。

五蘊の空とは、実質がなく幻法であることを指し、同時に如来蔵の空性に帰属する意味を有する。同様に色蘊の空は、色が存在しないことを指すのではなく、色蘊が本体的実質を持たず如来蔵より出生したものであり、如来蔵の空性に属することを意味する。色蘊は色法の自性を有せず、生滅する幻法であるが故に空である。空の定義:第一に不実性(実体なく自性なき幻法)、第二に虚空(一切無所有の義)、第三に如来蔵の空性義。

色蘊は如来蔵から出生し自在性・自主性を持たず、自らの存在を決定できず業種と如来蔵に生住異滅を委ねる。色蘊は如来蔵の幻化によって生じられ、本質は全て如来蔵性であり真実の色蘊性を持たない。泥人形が全て泥性を持ち本質は泥であり人形自体の自性がないのと同様、色蘊は自性なく全て如来蔵性であり全体が如来蔵である。同様に三界世間の一切法は如来蔵性を持ち如来蔵によって造られ、本質は全て如来蔵であり泥人形と全く異ならない。

四、廬山の真の姿を知らず 只だ身の此の山中に在るに縁る

廬山を世俗法に譬えるならば、衆生が世俗の虚偽虚妄不実性を見出せず、世俗法の苦空無常無我性を認識できないのは、自らの心が世俗法に密着し過ぎ、完全に世俗法に溶け込み隙間がなく、心が完全に世俗法に覆われているからである。結果として歳月を重ね生生世世、世俗法の中で喜怒哀楽に翻弄され、世俗法に転じられ世俗に束縛され、自らの身心は自在も解脱も得られない。解脱を求めるならば、如何にすべきか?

廬山を自らの妄心七識に譬えるならば、如何にして妄心の生滅変異無実性を認識すべきか?自らの心を客観的に見据え、自らの心行を認識するには、心を取り出して再び反観し、一定の距離を置き、一定の高みに立って自らの心行を客観的に観察するか、或いは他人の心行として観察する必要がある。これにより幾分か客観的公平性が得られる。

廬山を五蘊身に譬えるならば、累生累世五蘊身の中に在りながら、五蘊無我を知らず、五蘊の無常生滅変異を知らず、五蘊の苦空を知らない。五蘊の真の姿を改めて徹底的に認識するには、仏の説く四聖諦法に従い五蘊を観察せねばならない。五蘊身の真の姿を知るには、大乗般若を修学し五蘊身中の如来蔵を参究する必要がある。かくして五蘊身の本来の姿が実は如来蔵であり、五蘊身は如来蔵が現起した幻の仮象であることを知る。真実は五蘊身中に変幻の戯法を潜め、世人その跡を測り得ない。

五、活人と死人の区別を略説する

人が生きている時は必ず五蘊の活動を有する。色蘊において:呼吸・心拍・脈搏、血液流動、排泄、温度・柔軟度、涙・鼻水・汗、胃腸の蠕動及び色身の運転作用など。受蘊において:苦楽憂喜捨の感受。一時は快楽、一時は苦悩、一時は不苦不楽と、心境の感受が常に変化し続ける。想蘊において:花草樹木・人畜・金銀珠寶・人の教養気質・学識風度・四方八方の音響・香気臭気・酸甘苦辣鹹・冷熱触痛・飢渇温飽・軟硬厚薄・重軽安、思惟・推理・判断・回想・打算などを分別し、且つ絶えず一切の相を執取する。行蘊において:走行・歩行・行住坐臥・挙手投足・嬉笑怒罵・飲食衣装・生産事業が可能。識蘊において:眼は色を見、耳は声を聞き、鼻は香を嗅ぎ、舌は味を嘗め、身は触を覚え、意は法を思う。

生きている者は十八界の活動を有する。眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根はそれぞれ相応の運転を有する。色声香味触法に接触する時、眼識は色を分別し、耳識は声を分別し、鼻識は香を分別し、舌識は味を分別し、身識は触を覚え、意識は法を思惟する。これらの有為法の造作は、全て阿頼耶識である第八識が執持し維持している。

第八識は身を執持する機能を有する。受精卵の段階から、第八識は執持を開始する。精子と卵子は単細胞であり生命体ではない。各々約七日間しか生存できないが、相遇した後、第七識が第八識を伴って入住することで初めて受精卵は生命体となり、生命活動が生じる。第八識中の地水火風四大種子が母体の栄養と相応し、第八識は母体の栄養を吸収して受精卵を変生させる。七日毎に変化する。第八識が離れると、受精卵は直ちに死亡する。出胎後、第八識は乳汁・食事中の地水火風四大元素を吸収して身体を変生させ、嬰児は漸次成長し、漸次衰老して遂に死亡する。これらの現象は全て第八識の執持と変造による結果であり、第八識から出生したものである。

『成唯識論』に説かれた如く:(阿頼耶識は)身中に潜転して事業を作す能あり。即ち第八識が前七識と協調運作し、五陰身の一切の活動を産出することを意味する。死亡時、第八識が離脱し色身を執持しなくなると、排泄物が流出し身体は硬直冷たくなり、呼吸・脈搏・心拍が停止し、血液流動も胃腸蠕動も止まる。身体の諸活動は全て停止する。

六根が六塵に触れなくなると、内六塵は現れず、六識も出生せず、七識は離脱する。従って身体は死体となり、眼有りて見えず、耳有りて聞こえず、鼻有りて嗅げず、舌有りて嘗めず、身有りて触を覚えず、一塊の木材・一つの屍体と化す。如何なる打擲哭叫にも反応しない。これにより、死人と活人の区別は第八識の有無にあり、衆生が第八識によって造られる理を窺い知ることができる。以って参禅の着手処を知るべきである。

六、色身と物質色法の区別

色身は物質色法の一種に属し、物質色法と同様に四大種子から生成される。差異は以下の通り:一、色身には八つの識が存在し、従って五蘊の活動があるが、物質色法には識心がなく五蘊の活動がない。二、色身は個体衆生の如来蔵が単独で出生・執持するものであり、物質色法は共業衆生の如来蔵が共同で出生・執持するものである。色身には八識の活動があり、覚受が生じる。全ての覚受は識心の機能作用であり、来処なく去処なし。識心は第八識から出生し、覚受が滅する時も去処なく、識種子は滅して第八識に戻る。第八識を大海に譬えるなら、身体と一切の物質色法は海上の波頭である。

七、五蘊身は如来蔵に由来する

天上の白雲を仰ぎ見る時、白雲が絶えず様々な図形に変化するのを発見する。時には花の形に、時には猫犬などの形に変幻する。このように変幻された花や猫犬に自性や真実性はあるか?それらの美しい図形は花や猫犬か、或いは白雲か?我々が天上に漂うこれらを如何に認識すべきか?花や猫犬の真実相とは何か?思惟比量すれば容易に了知できる。それらの本質は全て白雲であり、花も猫犬も存在しない。全ての材料は白雲であり、故に猫犬は白雲の性質である。

同理により、衆生の五蘊身は全て如来蔵性である。全ての材料は如来蔵に由来し、全体即ち真如、即ち一真法界である。猫犬を五蘊身に、白雲を如来蔵に譬える。類推し仔細に思惟すれば、この理を明瞭に了知できる。多くの者は猫犬や花のみを認め白雲を認めず、更に多くの者は五蘊身のみを認め如来蔵を認めない。如来蔵を認めれば、明心と我見断絶を同時に達成できる。

仏法は現成で簡素明瞭、実は一枚の障子紙のようなもの。指先で正所を突けば万事成就する。福德不足の者は、突くべき所を突かず、突くべからざる所を力任せに突く。遂には退路を失い、最後の一点を突く。結局、成仏不能の者など存在せず、早晩の問題のみ。早く成仏を望む者もいれば、無頓着な者もいる。

八、如来蔵が一切法を転じている

定力不足・福德不足ならば、我見を断つことも明心することも困難であり、仏性を見ることは更に難中の難である。我見断絶の観行は、まず自らの色身の虚妄を観じ、色身の生滅変化を観行し、次に識心の生滅変化を観行せねばならない。識心の起こす作用である受・想・行・識別を全て観行し、これらの作用の生滅・無常・苦・空・無我を観じる。観行の範囲は可能な限り全面的でなければならない。

十八界の範囲を全て見出し、一つ一つ入念にその生滅無常性を観察する。根塵相触する処を観行し、透徹して観得すれば将来証悟に至る。この箇所が透徹しない限り、解悟の域を出ず、要点を悟れず根本を悟れない。六識にも触があり、六識が触れるのは六塵である。これらの法を観行し尽くせば、我見断絶は徹底し明心も速やかである。

世間において実は、全て如来蔵自らが一切を転じている。根も彼女、塵も彼女、識も彼女。これ以外に何も存在せず、一切法は全て彼女自身である。地に入れば気付く:一切の境界は彼女であり、一切の色法と心法は彼女であり、彼女以外に別のものは存在しない。

九、五根の体性を如何に了解すべきか

五根とは眼根・耳根・鼻根・舌根・身根を指す。五根は外五根と内五根に分かれ、外五根は浮塵根、内五根は勝義根である。各々が独自の組織構造と機能作用を有するが、全て如来蔵によって生成・執持される。これら五根の性質は全て本来如来蔵性であり、如来蔵より出生変化したものである。故に生滅変異し、無常・空・苦であり、無我である。

我々は五根の出生を観察する。無から有となり、有は還滅する。五根の構成を観察し、次に五根の変化を観察し、最後に五根の滅失を観察すれば、五根が生滅変異無常であることを知り得る。これは悟前、小乗の角度から観察するものである。悟後は更に大乗の角度から五根を観察し、如来蔵が刹那刹那に四大種子を出力して五根を組み立てること、五根が刹那刹那に変異することを観察する。五根の変異性は、如来蔵が各種の縁に基づき五根を維持・変化させるものであり、縁が変われば五根も変わる。

五根の機能作用は外界の五塵を摂取することである。五根はカメラの如く、受信と伝送を担う道具である。具体的な受信・伝送の方法や作用は識心によって制御される。識心はカメラを操作する者に似ており、人がいなければカメラは材料の集積に過ぎず無用である。五根も如来蔵と意根がなければ、ただの死肉に過ぎず、何の価値もない。

十、四食は全て如来蔵の功徳作用である

欲界の衆生は段食によって自らを養う。飲食を咀嚼して一段一段とし、飲み下して消化吸収することで、色身は生命活動を維持する。故に色身は虚妄不実である。欲界衆生は六根が六塵に触れねば色身を滋養増勝できず、生存不能である。故に五蘊は虚妄不実である。欲界衆生の七識は不断に思量運作を要し、さもなくば生存不能である。故に五蘊は虚妄不実である。欲界衆生の七識は不断に六塵を了別せねば生存不能である。故に五蘊は虚妄不実である。

色界初禅天の衆生には段食がなく触食を有する。触塵が必要で、さもなくば滅亡する。眼根・耳根・身根・意根の四根が四塵に触れ、眼識・耳識・身識・意識も四塵に触れる。これが触食である。思食として意識と意根に思想活動が必要で、触れた一切法を思惟して初めて運作可能となる。初禅天人には鼻識と舌識がなく、眼識・耳識・身識・意識・意根の五識が法を思量して初禅天で生存する。識食として五識が天界の四塵を分別了別する。この三食があって初禅天衆生は生存し色身を維持できる。故に初禅天衆生の五蘊は虚妄である。

段食の獲得から色身の滋養に至るまで、全て如来蔵の功徳である。如来蔵が色身を滋養維持し、触食・思食・識食も如来蔵の功徳である。帰する所、全ての衆生は如来蔵に依存して生存し、如来蔵を一刹那でも離れれば存在し得ない。六根六塵六識は全て如来蔵の変現であり、四食も如来蔵の変現である。衆生が必要とする一切は如来蔵が変現したものである。故に衆生は虚妄・不実・空幻・非我である。四食住を深細に思惟すれば、我見を断ち解脱を得られる。

十二、色身は如来蔵の属性である

身体を最も微細な細胞単位に分解すれば、細胞内には様々な粒子が存在する。粒子は四大微粒子で構成され、四大微粒子は如来蔵中の四大種子から成る。四大種子は形相なく、如来蔵に由来する。如来蔵が四大種子を出力して微粒子を形成し、微粒子が更に聚合して極微細な物質となり、更に聚合してやや大きな物質となる。肉眼で見える大きさに聚合すれば、漸次最初の色身が形成され、最終的に色身が完成して母胎を出る。

これにより、色身は空であり生滅し無我であることを知る。色身は如来蔵から出生し、如来蔵によって執持され、全て如来蔵性である。この身体も如来蔵の種子機能作用が転化したものであり、如来蔵の一部分の機能に過ぎず、如来蔵の属性である。色身自体の属性や自性は存在しない。これらの内容は一般の者が思惟するのみで現量観行できず、相応する定力が不足し、慧力も不十分で、意根が着力できず深細な観行・思量に参与できないため、この理を証得できず、此処から身見・我見を断除できず、如来蔵を証得することもできない。

十三、微粒子から成る色身は虚妄である

衆生の色身細胞内には生物電気が発生する。生理学では生体電気と呼ぶ。生物電気は不断にエネルギーを放出し、色身の需要を維持する。細胞内には四大で構成された各種の粒子(核子・中性子・陽子・原子・電子・イオン等)が存在する。これらの粒子の生滅代謝は、熱エネルギー・運動エネルギー・電気エネルギー等、色身が必要とするエネルギーを形成する。エネルギーが放出されると、身体中の四大物質成分が消耗し、不断に四大物質成分を補充する必要がある。故に飲食を要する。飲食の消耗を減らすには識心の活動を少なくし、深い禅定に入り内心を静謐に保ち、識心の活動を減らせばエネルギー消耗も減少する。

色界・無色界の天人は禅悦を食とし、飲食も物質色法を必要としない。欲界衆生が飲食を絶えず摂取し飲食と滋味に貪着するならば、色界禅定を発起できず、色界定を得られない。飲食に拘る者は食欲を降伏できず、初禅定が現起することは不可能である。

生物とは生命体であり、生命体は五蘊身である。五蘊身は四大種子と識種子によって構成され、識種子が四大色身に作用することで五蘊の活動が生じる。四大種子は刹那に生滅変異し色身は空幻不実である。識種子も刹那に生滅変異し空幻不実であり、全て如来蔵性である。五蘊身は刹那に生滅変異し、実体なく空華の如し。此処に着手し我見が淡薄になった後、小乗を修すれば容易に我見を断じ得る。

十四、五蘊及びその依る縁は全て如来蔵の幻化である

外色は多数の如来蔵が共同で顕現したものであり、色身及び内色は自らの如来蔵が単独で顕現したものである。眼根は如来蔵から出生し、眼識は如来蔵から出生する。眼識が色を見る作用は、如来蔵・第七識・第六識・眼識が共同作用し、内色を眼識意識内に顕現したものである。四つの識は各々独自の作用を有し、また和合的共同作用も有する。根・塵・識の三者は全て如来蔵が顕現・執持・督導する。これら三者を離れれば衆生も五蘊も存在せず、では五蘊衆生とは何か?何処に我が在り、何処に五蘊が在るのか?どの存在が我なのか?色を見、声を聞き、香を嗅ぎ、味を嘗め、触を覚え、法を思う。一切の見聞覚知、全ての覚受機能、全ての思想情懐は何物か?

五蘊が依存する法を全て見出し、これら法が何であるかを観行し、更にこれらの法が何に依存するかを観察する。依存性有るものは即ち非真実・不自在・不自主・苦空無常・生滅・幻化・虚妄・無我である。このような思惟に従い、禅定に入って観行し、思路を整理し、意根に感知させ、覚悟させ、触証させる。最終的に内心に一つの声が響く:これら一切法は真実性なく、全て戯れに過ぎない。何処に我が在り、何が我か?全てではない。然る後大泣きし、身心脱落し、掛礙無くなる。

この過程において、意根が漸く事実を認めようとする時、心中は甚だ苦痛で悲しみに満ちる。永劫執着してきた我が無くなろうとするのを目前にし、心は空虚で恐怖に満ち、断崖の縁に立つが如く、墜落を恐れ躊躇・心配・恐れ、何も無いと知りつつ何も掴めない焦燥に苛まれる。時を経て漸く受容し、平穏に復帰する。これは今世初めて我見を断じんとする者が経験する過程である。前世に多生多世我見を断じた者は軽安に解脱し、歓喜する。

各人が接触し得るものは全て個人的私有物である。私有は第二の幻化を表し、幻の上に幻を重ねる。外部の公有も内部の私有も全て幻化虚妄で真実性なく、鏡像の如し。真に鏡像観を証得するには初地満心を要し、その時初地の修すべき法は全て修了している。

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