五蘊の観行による我見の断ち(第一部)
第一章 基礎概念の紹介
第一節 五蘊十八界の概念
一、衆生の我の構成
衆生が我と称するものは、五蘊と十八界の全体を指す。実際には意根が五蘊十八界を我及び我所と見做しており、我とは即ち意根を指す。意根が我心・我性・我見・我執を有しており、我見を断つとは意根の我心・我性・我見・我執を断つことである。
五蘊:色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊。十二処:六根と六塵。十八界:六根・六塵・六識。六根:眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根。これらは六識が依拠する根である。前五根は四大によって構成された有色根であり、肉眼で視認可能で身体表面に存在する浮塵根と呼ばれる。意根は有色根ではなく無形の無色根であり、根であると同時に識心でもあり、肉眼では見ることができない。六塵:色塵・声塵・香塵・味塵・触塵・法塵。それぞれ眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根に対応する。六識:眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識。
二、六識の了別性は如何にして生じるか
眼根が色塵と接触すると、第八識が眼識を生じ、眼識が再び色塵と接触することで色塵を分別し、衆生は色を見る。耳根が声塵と接触すると、第八識が耳識を生じ、耳識が再び声塵と接触することで音声を分別し、衆生は音を聞く。鼻根が香塵と接触すると、第八識が鼻識を生じ、鼻識が再び香塵と接触することで香塵を分別し、衆生は香を嗅ぐ。舌根が味塵と接触すると、第八識が舌識を生じ、舌識が再び味塵と接触することで味塵を分別し、衆生は味を嘗める。身根が触塵と接触すると、第八識が身識を生じ、身識が再び触塵と接触することで触塵を分別し、衆生は触覚を了別する。意根が法塵と接触すると、第八識が意識を生じ、意識が再び法塵と接触することで法塵を了別し、衆生は覚受を得る。
三、内外の根塵
五根のうち前五根は外根と内根に分かれる。外根とは浮塵根であり身体表面に存在する。内根は勝義根と呼ばれ後頭部に位置し、外根は伝導神経を通じて内根と連結する。肉眼では頭皮に覆われた内根を見ることはできず、第八識がこの部位で六識を生じる。
六塵は外六塵と内六塵に分かれる。外六塵は我々が直接接触できず、第八識が外六塵と接触し、伝導神経を通じて六塵上の四大微粒子を後頭部の勝義根部位に伝達し、内六塵へと変換する。内五根と意根が内六塵と接触すると、第八識が六識を生じて内六塵を了別する。内六塵は影のように現出したものであり、相対的に真実なる外六塵ではないが、外六塵とほぼ同様であるため、衆生は自らを極めて真実だと錯覚する。実際には全て幻化されたものであり、世尊が説かれた如く「凡ての相は虚妄なり」である。
四、五蘊の構成
五蘊:色身に識心が加わることで五蘊が構成される。色法と心法が和合して五蘊を成し、五蘊とは識心が色身において活動する状態である。識心がなければ五蘊は単なる死屍に過ぎない。五蘊は和合体であり、和合して成るものは真実ではなく、生滅変化するものは真実ではない。
欲界の衆生は、あらゆる活動の瞬間に五蘊が関与している。歩行・食事・仕事など全ての活動は五蘊の活動であり、仏はこれを五受陰と説く。識蘊とは六つの識心の識別了別作用を指す。眼識は色を見る役割を担い、耳識は声を聞き、鼻識は香を嗅ぎ、舌識は味を嘗め、身識は触を覚え、意識は法塵を分別する。識蘊の活動は一連の五蘊活動そのものである。色蘊の一切の活動は識心によって支配されるため、五蘊は身心が相互に連動して運転する状態である。識蘊は意根の指図を受け、意根が総指揮者として何を行うかを決定し、六識はこれに従って実行する。身口意行は意根の動きに随って発現する。
六根が六塵と接触する時、意根が造作を欲すると六識が生じる。六識が六根六塵と接触した後、分別性が生じ、六塵を分別する際に現れる喜怒哀楽の覚受が受蘊となる。想蘊は六識心上における取相であり、六塵への執着性を示す。六塵の境界を了知了別し、続いて一連の妄想・思惟などの心理活動が現れる。行蘊は運動・動転・流転・変化・変動を意味し、六識が絶えず存在し動転する機能作用であるが、その中には意根と第八識の機能も含まれ、八識が和合して運作する結果である。
色蘊の上に識蘊があり、受蘊の上に識蘊があり、想蘊の上に識蘊があり、行蘊の上に識蘊がある。識蘊は六識の作用であり、識受陰とも称される。識蘊のこれらの機能作用には境界と限界があり、各々が独自の役割を果たし相互に代替できない。例えば眼識は色塵の粗相を分別するが、形色を分別する意識の役割を代行できず、表色や無表色などの法塵を分別できない。眼識は音声を聞くことも香りを嗅ぐこともできず、色を見る境界を超えられない。他の識も同様である。
五、六根触処における受想行識の出生
六受身:眼触生受・耳触生受・鼻触生受・舌触生受・身触生受・意触生受。触の対象は六塵の境界である。六想身:眼触生想・耳触生想・鼻触生想・舌触生想・身触生想・意触生想。想とは了知であり了別であり、心上に相を取ることを指す。六思身:眼触生思・耳触生思・鼻触生思・舌触生思・身触生思・意触生思。思とは行蘊を指し、動転であり決定心であり、六識の造作と選択・動転である。六識身:眼触生識・耳触生識・鼻触生識・舌触生識・身触生識・意触生識。
六、「不異我」「不相在」の意味
世尊は『雑阿含経』において弟子たちに、色蘊が我ならざることを観行する際、過去の色蘊が我ならず・不異我・不相在であることを観じ、現在の色蘊が我ならず・不異我・不相在であることを観じ、更に未来の色蘊も我ならず・不異我・不相在であることを観じるよう教えられた。良き色蘊・悪しき色蘊・粗い色蘊・細かな色蘊、内色・外色に至るまで全て我ならず・不異我・不相在である。これによって初めて色蘊を全面的に詳細に観行し、色蘊を我とする邪見を徹底的に断除できる。では「不異我」「不相在」とは何を意味するか。
不異我の意味:小乗法の立場では、衆生は時に色蘊を我と見做し受想行識蘊を我所とし、時に受想行識蘊を我と見做し色蘊を我所とする。即ち一蘊を我とし他蘊を我所とするが、実際には色蘊等五蘊は我ならざるのみならず、我所としても我と異ならない。五蘊は我でも我所でもなく、我と我所の双方が我ならざる。大乗法の立場では、色蘊は第八識たる真実の我と異ならず、色蘊は第八識より出生し完全に第八識に由来する。第八識と非一非異の関係にあり、第八識を離れて独立した色蘊は存在せず、第八識を離れた色蘊の機能作用も存在しない。故に色蘊は我と異ならず、他の四蘊も同様である。
不相在の意味:小乗法の立場では、色蘊の我と受想行識蘊の我所は互いに存在せず、色蘊は受想行識蘊の中になく、受想行識蘊も色蘊の中にない。我は我所の中になく、我所は我の中にない。意根は時に色蘊を我と見做すと、受想行識蘊を我所とし、我と我所が互いに融合していると考える。意根は時に受蘊を我と見做し、他蘊を我所とし、受蘊が他蘊と融合していると考える。実際には色蘊は我ならず、我所と見做された受想行識蘊も我所ならず、両者共に我と無関係であり、共に断除すべきものである。これらの機能作用を真実不滅と認めてはならない。五蘊を我とするのは邪見であり、我所とするのも同様に邪見である。共に破り、五蘊に我も我所も無いという正見を確立して初めて漸く生死を了脱できる。
大乗法の立場では、色蘊は第八識の中になく、第八識も色蘊の中にない。第八識は形も相も無く空であり、内外の概念も存在しない。第八識は無色法の空性心体であるため、色蘊を収容できない。また第八識が色蘊の中に存在しない理由は、第一に第八識が無形無相であるため色蘊の内外や中間に存在し得ず、第二に色蘊と第八識は同類の法ではなく、互いに包含・重畳・接触し得ないが、両者は密接に連関している。もし第八識が色蘊の中にあるならば、色蘊を切断すれば第八識を見出せ、第八識が色蘊から出てくるのを見られるはずだが、実際には見出せず出てくる様も観察できない。故に色蘊と第八識は互いに存在せず、しかし密接に連関して分離不可能である。同様の理により、五蘊十八界は全て第八識と不異でありながら不相在である。
以上が五蘊十八界の基本概念及び内包である。これらの名相を理解した後は、五蘊十八界の無我性を実証せねばならない。実証するには必ず観行を行い、観行とは定中において五蘊無我の理を深く細かに思惟することである。