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五蘊の観行による我見の断ち(第一部)

作者: 釋生如 分類: 二乗の解脱 更新時間: 2025-02-25 閲覧回数: 63

第五章 如何なるが真に我見を断ったこととなるか

第一節 意根と意識が同時に我見を断つ

一、我見を断つには意根を断たねばならない

我見を断つとは知見上の煩悩惑を断つことであり、即ち不正確な知見を断除する。これは見惑に属し、主に六七識の誤った知見と観点を含む。思惑は修道時に断つ思想観念上の煩悩、即ち貪瞋痴慢等の煩悩惑である。見惑は初果証得時に断ち、思惑は三果四果時に断つ。初禅を証得して初めて断ち始められる。貪愛と瞋恚を断除するのが三果人、一念無明愚痴我執を断除するのが四果人である。則ち意根の我見も見惑に属し、知見上の煩悩惑であり、初めて見道する時に断つべきである。意根の思惑煩悩は二果時に降伏し、三果時に断除開始し、断尽するのが四果人で八地菩薩に相当する。

初果で我見を断つには必ず意根の我見を含み、主に意根が我見を断つ。意根が我見を断たねば初果証得は極めて容易で、意識が考察すれば直ちに我見を断てるが、実際は容易でない。多くの者は阿含経を一生学んでも初果を証得できない。実際多くの者の意識も一切法が虚妄で夢幻泡影の如きことを理解するも、我見を断ち初果人となれない。

意識心の我見は断除容易。慧強く法を聞けば直ちに思惟観行し我見無明を破砕し得る。然し意根の我見に影響され我見は随所に現起する。意根の我断は困難。意根の我見無明が根深く、意根の智慧弱く接触する法義を速やかに理解できず、甚深禅定と意識の薫染力に依らねばならない。意識が資料データを提供し意根が参究参考し無我の理を思量確認して初めて我見を断除する。

二、三結が意根のものであれば意根の我見を断たねばならない

我見を断つには同時に三結(我見・見取見・疑見)を断つ。三結を断除すれば未来永劫三悪道に堕ちぬ保証となる。もし単に意識が我見を断てば足りるなら、意識は三結を断除できるか?三結は意識を縛るか意根を縛るか、或いは両方を縛るか?生死の結縛を断除するのは意識次第か?意識が生死の大事を主宰できるか?無始劫以来の結縛は意根のものか意識のものか、意識がこれを断絶できるか?意識が三結断除を主宰できるか?

無始劫以来の生死結縛は主に意根の結であり、三結は主に意根を縛る。意根は生生世世滅せず業力と相応し、業力に随って六道を流転する。意識は一世のみ存在し来世の五蘊身を主宰できない。意識が五蘊身を些細に変更することさえ不可能で、六塵においても主宰できず、足を上げるよう命じても動かせぬ。ガラス張りの歩道が安全だと意識が説得しても足が上がらぬ。如何にして意識が無始劫以来の生死結縛を断絶できようか?

意根は如何なる法においても主宰を求め、我見断ちという無始劫以来の重大問題において主宰を放棄することはない。意根が主宰せざるなら偽りの我見断ちであり真実ではない。意識の表面的主張のみで意根が主張せず強いて随順するものは虚偽であり、演劇の如し。深層の意根が主張し内心より発するものこそ真実である。

故に世間人の言行は真偽に分かれる。泣きにも本心の涙と嘘泣きの区別あり、笑いにも本心の笑みと作り笑いの区別あり、恐れにも真の恐怖と偽りの恐怖の区別あり、人への気遣いにも本心の配慮と見せかけの配慮の区別あり、怒りにも本気の怒りと演技の怒りの区別あり、憎しみにも真の怨みと偽りの恨みの区別あり等々。世間人の言行に真偽あるが故に、互いに猜疑心を抱き警戒し合い、相手の真意を探らねばならず安易に信頼できぬ。此の為世間人は人付き合いに疲弊し、稍々の油断で欺瞞と策略に遭う。世の権謀術数は斯くの如し。

三、真の我見断ちと偽の我見断ちの差異

仏法の修証においても、真の修証と偽の修証に分かれる。我見断ちには真の断我見と偽の断我見の区別があり、明心にも真の明心と偽の明心の差異がある。真偽混在は世俗生活と仏教修行に充満し、識別困難である。凡そ偽なるものは意識表面のものであり、装い・作為的である。真なるものは意根深層と相応し、意根が認可し、内心より流露する。作為無く信頼に足り、誠実無欺である。

仮に我見断ちが単に意識のみで意根が不断なら、意根は三結を断除せず三悪道不堕を保証できぬ。三悪道への転生は業種と業力に依り、意根が業種・業力と相応するからである。意根が三結を断たねば業種は変化せず、命終時業力に牽引され三悪道に堕す。意識心は如何ともし難く、主宰できず断滅的である。断除後の事象を主宰できぬ。故に意識のみの修行は無益で、生死問題や三悪道問題を解決できぬ。

仮に意識が三悪道不堕を決定できたとしても、臨終時は意識が先に滅し、意根と如来蔵のみ存在する。意識無き中、意根と業力が相応し、三悪道行きを決定する。中陰身における意根の振る舞いを観察すれば明らかである。意根は自らの煩悩習気と完全に相応し、其の現行に従って転生する。

意根が我見を断たぬ場合、意識滅後に意根は業種・業力と相応し、業力に駆られ三悪道に入る。意根が三結を断たず三悪道と相応する心行を保てば、縄索解かれず必ず三悪道に牽引される。地獄に堕する場合は中陰身を経ず、意根と如来蔵が直ちに地獄身に入る。

四、何故必ず意根が我見を断たねばならないか

生死輪廻と三悪道の輪廻は、意根の無明に起因する。意根の無明が破られなければ、十二因縁の生死連鎖が存続し、衆生は意根の無明に縛られ六道を出離できず、三悪道に繋がれたまま脱出不能となる。無始劫以前、意根は無明により本真の我を知らず、法界の実相を知らず、本心を守ることを知らなかった。故に外に向かって貪求を起こし、五蘊身を虚しく生死輪廻の苦を受けるに至った。意根の無明が内心を妄動させ、如来蔵が意根に随順して宇宙器世間を出生し、衆生の五蘊身を生じさせ、三界世間法が現出した。衆生が三界で無量劫にわたり生死輪廻を続け、今なお終結せぬのは、意根の無明と結縛による。修行とは意根の種々の結縛・無明を断除し、無明の束縛から脱し、生死の繋縛を離れ解脱を得ることに他ならない。

故に我見を断つには必ず意根の我見を断除せねばならず、その後貪瞋痴煩悩を淡泊化し、更に貪瞋痴煩悩を断除し、最終的に意根の我執を断じる。初果で意根の我見を断たねば、二果の貪瞋痴淡薄化も無く、三果の貪欲瞋恚断除も無く、四果の貪瞋痴慢煩悩断尽も無く、我執断尽の説も成立せぬ。此れより意根の我見は初果時に断除され、四果時に至って我執が断除される。此の修行の筋道を明確にすべきである。

意根が我執を断たねば、自我の消滅は起こらない。身体活動の指揮は意根の機能である。意識が身体を指揮しようとする時は、意根の同意と命令を必要とする。六識が活動して初めて身体が動く。六識が出生せず活動しなければ身体は動かぬ。意根は無始劫来、身体を自己と見做し執着を解かぬ。身体が自己の制御を離れれば、意根は自我喪失を感じ莫名の恐懼を覚える。故に我見断ちは必ず意根が行わねばならず、意根による我見断ちこそ真の断我見である。ただし究竟的に我見を断じ尽くすは仏世尊のみであり、四果俱解脱の大阿羅漢ですら究竟的断我見を成し得ていない。

五、意識の思惟過程は即ち意根を薫染する過程である

五蘊を観行して我見を断つには、意識心が五蘊非我と認めるだけでは不十分で、意根の認可が必要である。意根に認可させるには甚深禅定により意根を三昧中に入らせ観行参究せしめねばならず、意識が無我と認めただけでは無我とならぬ。意根が五蘊無我を証得せねば我見断ちに非ず、生死輪廻の根源は断たれぬ。此の根源より我見を断つことこそ真の断我見である。

意根の攀縁範囲は極めて広範で定力無く、慧力劣弱で問題理解認識能力に欠け、真理を証得し難い。必ず甚深禅定を修め、意根を専一深入させ考究参究せしめねばならない。更に意根の固有習気が重く知見転換困難である為、意識が充分な資料データを提供し意根を導き法義を参究させねば、我見断ちは不可能である。

意識は深細な思惟を以て意根に影響薫染すべし。即ち思惟すべし:五蘊が如何に虚妄か、如何に生滅するか、如何に無常か、如何に変異するかを。此の「究竟」の二字は事実を提示し道理を説くことを含み、意根は事実のみを承認する。事実を提示するには、意識が意根を導き深細に思惟せしめねばならぬ。意識の思惟全過程が即ち意根への影響薫染過程である。意根が一定程度薫染された時、初めて自発的に深究し思量観行し日夜止まず、遂に現量観行により五蘊無我を体得し三昧境界が現前する。故に意識の全ての心念は意根を薫染し得、意識の思惟過程こそ意根薫習の過程である。

六、我見断ちの正義

我とは意根第七識を指す。意根が五蘊中の色蘊を我と見做し、受蘊を我と見做し、想蘊を我と見做し、行蘊を我と見做し、六識の識蘊を我と見做し、更に自らを我と見做す。故に我見が生ずる。六識は依他起性で展転生じ、意根第七識が利用する道具である。五蘊と色身における頭と四肢の関係の如く、意根は無始劫来五蘊の各部位を我と見做し、第八識の機能作用も我と見做す。

意識の我性は微弱で、意根の我性に遠く及ばず断除容易である。概して意識は五蘊無我の理を薫習し、稍々思惟すれば理を明らめ得る。然し意根の思惟観察力は弱く、無始劫来の深厚無明が智慧を蔽い、理を明らめ難く、意根の我見は極めて断ち難い。古来真に我見を断つ者は極めて稀で、仏陀在世時も証果者の割合は大ならず。故に我見は主に意根の我見を指し、断我見には必ず意根自らが意識と共に無我の理を参究し、現量観察により五蘊が確かに無我であることを確認せねばならない。これが真の我見断ちである。

意識が復唱機の如く文字を暗誦するのみで、定中深細思惟観行せねば、意根は永遠に薫習されず理を明らめ得ぬ。これは意識が文字表面で浅薄に振舞うに過ぎず、五蘊無我の解悟に留まり実証困難である。

我見断ちが意根の自証なら、明心証悟も意根自ら第八識真如を証得するか?答えは然り。意根は無始劫来五蘊六識の機能作用を我と見做し、第八識の機能作用も我と見做し、自らが無であることを知らぬ。一方で第八識に依存し、他方で五蘊六識に依り、虚妄なる我の機能作用を成立させ、三界生存を可能にする。

意根の無明を断除し仏道を成就するには、五蘊大樹を伐倒し依存を絶ち五蘊を我と認めさせぬ一方、第八識を確立し其の真実を証得させ、一切法が第八識所為であり自らの機能作用でないことを知らしめる。かくして意根は法界実相を認め、無明を漸次破砕し我執法執を断尽し、徹底無我の境地に至り仏世尊となる。

七、意識が如何に密接に意根を補佐し我見を断つか

我見断ちにおいて、意識は先ず意根に必要な全ての証拠とデータを提供し、その後は思惟を控え機能を抑制し、意根の心理活動に協力し、意根自らが思量考量する余地を与える。意根が自ら事実を検証できるよう手放す。意根が事実不充分・証拠不足・データ不十分と感じれば、意識は再び思惟観行しデータを収集して意根に渡す。意根は深く思量考量を重ね、意識が傍らで継続的にデータ資料を補完すれば、意根は不断に加工し思惟を完備させ、遂に確固たる証拠に基づく結論を導き出し証果する。

処理すべき事柄が多い場合、意識は必ず定を出て六塵を了別せねばならない。然る時意根は密かに用功し、行住坐臥参究を離れず、夜間の夢中有無を問わず用功可能である。意根が事態重大と実感すれば、寝食忘れる精進を決断する。意根が精進を決すれば、飲食活動は六識が実行するも、同様に意根の専心思考を阻害し、日常雑事に心神を分散させる。故に意根は五蘊の他活動を削減し心神分散を防ぐ決断を下す。睡眠時は意識の補佐無く、意根は充分なデータ資料を得られず参究着手不可。故に意根は睡眠せず意識を滅却させぬか、或いは夢中で意識を参与させる決断を下す。

八、観行と参禅の根本は意根自ら観じさせることに在り

一切法の参究において、最初は意根が意識の思惟分析に協力し、意識が各種データ資料を収集するのを補佐する。意識が資料を比較的充分に収集し、意根が利用可能な段階に至れば、意識は意根の深思熟慮・加工統合作業・審査濾過作業に協力し、意根に思量を重ねさせ、意識の活動を抑制する。かくして参究作業は速やかに完遂される。

意識の思惟活動を抑制し意根の思量を増やすには、定を修めねばならない。定中において初めて意根の専心参究を保証できる。意根が完全に一処に定まることは不可能でも、極少数の法に定まれば足りる。専心参究すべき法義以外は稍々了別するのみで、参究を妨げぬ。観行は定中において行い、意識が情思意解に陥らず、意根の思量性を多用し、意根の思量を充分に発揮させ、自ら五蘊無我を証得させる。これが観行と参禅の根本である。故に意根が法を証せずして明心証悟は不可能で、同様に我見断ちも不可能である。定中における参禅観行は、意識思惟を少なくし意根思量を多く用いることが其の根本である。

意識の協力無しでも意根は法義を参究思量できるが、時間を要する。事例あり。例えば夜問題を考え解決せず就寝し、一晩中眠った後、翌朝目覚めた瞬間に意識に霊感が現れ、未解決問題を突然理解する。これは夜中意根が働き続け、疑問を残した結果、朝解答を得たことを示す。同様の経験を持つ者多し。

或いは問題を思惟しても即答得られず他事に移り、表面上忘れたようでも、突然解答が浮かぶことがある。これは意根が背後で黙々と思量し結果を得た証である。修行は意根を多用すべし。意根の修行こそ真の修行で、一切法を証得し一切智を得る。

五蘊を観行する際、意識の観行情報は同時に意根に伝達される。意根は初回理解せずとも、時間をかけ理解薫習し、意識の観行結果を認める。これが意根独自の思量判断性の発動である。禅定有る時、意根は意識の観行思路に基づき自ら思量し、意識と共に或いは単独で思量する。意識の薫染が深まる程、意根は単独思量を深化させ、意識と共に我見を断除し証果する。

九、意識と意根が緊密に連携して初めて我見を断つ

観行に沈思する時、其の中に意根の深慮が存在する。例えば往復歩きながら思考する際、意識の思惟と共に意根の思慮考量が働く。意識の力が強ければ意根の力は弱く、意識が思惟を控えれば意根の力は強まり、問題解決に力度を発揮する。意識と意根の交流方式は通常自問自答の形式を取る。誰が問い誰が答えようと、最終的には意根が認可し決定権を行使して初めて問題解決となる。五蘊観行・公案参究・参禅は悉く自問自答と同じ原理であり、両識の緊密な連携関係に基づく。

意識存在時、両識は刹那も分離せず、意識の思惟は常に意根の指揮を受け、意根の制御と協力を離れた事は無い。意識が単独で思惟し意根が参与しない状況は存在せず、意根が参与しなければ意識は滅び存在しない。意識は意根を離れて単独運行不可である。意識が存在せず思惟しない時も、意根は単独で活動を続け、睡眠・昏倒・死亡前後においてさえ休止せず、遍計所執により時々刻みに思量し随所で主宰する。

故に両識が緊密に連携しなければ、参究開悟も我見断ちも不可能である。意識の参与無くしてはデータ資料無く詳細不明で証拠不足となる。意根が思量に参与しなければ、問い有りて答え無く解答得られず、未解決問題として意根に滞留し、解決時期不確定となる。

十、自己暗示法による意根の薫習

自己暗示法を用いて仏法を観行する際、意識は常に意根に暗示を与える。五蘊虚妄・一切法虚妄を繰り返し伝え、時機至れば意根に疑情が生起し、自ら検証を始め我見を断つ機会を得て、潜在能力を発揮し自己を変革する。此の暗示は自己催眠に類似し、自らを静寂沈黙の状態に調整し、内心の声を聴取可能な状態に導く。此時初めて自己暗示が可能となる。

前述の我見断ちの内容を、緩急抑揚をつけて述べ、意根に受容を促す。意根に緩衝時間を与え情報を受容させ、思路を整理し法義を考量させる。此れには一定の時間と特定の環境が必要である。意根が他問題に注意を向けず、導かれる内容に集中し、内心が静寂・安穏・調和を保ち、意識の導きを充分に受容できる状態を維持せねばならない。意識が導く所へ意根が思惟を及ぼすなら、意根は従順に薫習を受け初期段階にあり、未だ最終成就せぬ状態である。鍵は意識が意根の反応を観察できるか、導きの経験有無、真に無我の理を理解しているかにある。此の暗示催眠は適切な時機と環境で反復実施可能。意識の理論が熟達し、意根を観察・誘導でき、沈着静寂を保持し得れば、時至り意根必ず我見を断つ。

十一、我見断ちの瓶頸

毎晩時間有る時、テレビ画面の人物と景色を観察し、各種人物の五蘊活動が如何にして現れるか、如何なる因縁和合により生成されるか、如何に生滅虚妄で実在せぬか、如何に自性無く我性無きかを観行する。不断に深細に思考すべし:画面の人物景色は如何にして現出するか?

各種因緣を悉く抽出した後、定心を以て思惟すべし。此等の人物景色は一つの縁欠けても現出せず五蘊活動成り立たぬ。五蘊は各種の縁に依存し存在し、一縁滅すれば五蘊も滅す。如何に五蘊が不実不確かであるかを思惟すべし。思惟は深細を要し、分析を控え深入りし、多に体得し、各種因縁データを揃えて意根に認定審査を委ねる。残る作業は殆ど意根のものであり、意根に委ねる。只静かに深く此等の内容を懸案し続ければ、或る日突然明らかとなり、自他共に五蘊活動が同様に虚妄不実で自主性無く真我でないことを認定できる。

或る者は意根の認定段階に至らず、法義は既に意識心中に明らかであるが、意根認定が困難である。禅定不足により意根が深思せず、全ての思想観念が意識表面に漂い意根に深入せず、意根が認定できず無我の義に確信持てぬ。此れが我見断ちの瓶頸であり突破策を講ずべし。定力不足の原因は、一に修定時間無く、二に福徳不足、三に戒律不完備、四に輪廻苦を認識せず出離心無く菩提心発さぬこと等。他にも小原因有れば自ら抽出し逐一克服すれば、我見断ちは成就し更に大なる功徳を成すべき時至る。

十二、如何にして受想行識蘊の無我を観行するか

受蘊が究竟如何に生滅無常変異するかを観行し、究竟如何に苦・空であるかを観じ、何故我に非ざるかを観察する。如何に虚妄・虚仮・空なるか、何故生滅変異が苦であるか、何故苦なるものが我でないかを、一連の思惟過程を具備し正知見を具足して初めて意根を有効に薫染できる。意根が定中で思量し通達して初めて、意根の根深い我見を転換できる。

思惟観行過程無く、単に意識の理解に依るのみでは、意根は薫習されず疑を断じ信を生ぜず理を明らめ得ない。意根自らが禅定中に観行参究し実証し、親しく見証して初めて疑を断じ信を生じ、受想行識の無我を確認する。親証せずに理を認めさせ自己を変革させようとするは成立せず、必ず親証親見を要す。

受蘊の観行を了え、次に想蘊を観行する。想蘊とは何か、如何なる面に其の機能作用が現れるか、想蘊の行相と特徴を明らかにする。了知後、想蘊が如何に生滅変異するか、究竟如何に無常か、如何に空か、如何に苦か、苦空無常の想蘊が何故我でないかを深細に思惟整理する。此れにより意識心自らが明らかにし、想蘊が非我・異我に非ざることを親証するのみならず、意根が現前に思量抉擇して「想蘊は真に生滅変異無常無我なり」と確信する。此の抉択は非常に力強く、内心深く此の理を認同し、想蘊への執取心を緩める。

次に行蘊を観行する。心を静め雑念を排し、行蘊とは何か、如何なる内容を含むか、其の行相特徴を思惟する。了知後深細に思惟すべし:行蘊は如何に出生し、如何に集起し、如何に滅し、如何に生滅変異し、如何に不自在であるか。行蘊が如何に空で苦であり、何故我でも我の所有でもないかを反復観察し多方面から検証し、一連の事実を心中に顕現させる。意識自らが行蘊が確かに無常無我と認めざるを得ぬ(口で服す)。更に意根も行蘊の苦空無常非我を認めざるを得ぬ(心で服す)。口心共に服して初めて七識の心行が根本転換し、天下太平となる。識蘊及び色蘊の観行も同様である。

五蘊は此の如く一蘊ずつ観行思惟し、十八界も亦然り。一界また一界と悉く思惟観行し透徹せしむ。思惟透徹するには一定の定力を要し、定力欠乏すれば成し得ぬ。定中における思惟は深細にして、徐々に意根に深入し、深細緩慢であればある程意根と相応し易く、意根自ら深細な思量を生起し実証に至る。真切な認知有りて初めて旧来の知見を改め、心行に大転換を起こす。意根は未熟な法に対し慧力弱く、初めは意識の補助思惟を要する。一旦意根が法に疑情を生じ興味を抱けば、深入参究し無我を実証し得る。

十三、深細なる思惟観行のみが真に我見を断除し得る

五蘊虚妄を観行する際、意識は通常粗雑に五蘊非我と認めるが、深細な思惟観行を経ずしては其の縁由を究竟徹底的に了知できず、意根が共に観行に参与せぬ為、意根は其の真実義を理解できず、五蘊非我の理を認可せず、内心は依然として変容無く心行も改まらぬ。故に真の我見断ちに非ず。

深き定を修め、定中で更に深細な観行と思惟を継続し、其の原理を透徹せしめ、無我の証拠を充分に揃え、三昧智慧が現前して初めて意根の元来の知見を覆し、内心深く五蘊無我を確信し、遂に我見を断除する。深細な思惟観行を経ず、或いは観行が浅ければ、意根は真に理を明らめ実証できず、身心に触動無く心行転覆せず、意根は依然として五蘊色身を我と認める。

観行中、意識が身体を自己の利用道具と感得すれば、次に意識心自体も意根の用いる道具であることを反観す。意根は常時自らの道具たる五蘊身に執着し、七識心も道具に過ぎず真の自己でないことを観行する。意識或いは七識心を自己と見做さず、色身と識心を我とする知見を破砕し、意根が深く此れを認可すれば知見は徹底転覆し我見断尽する。

五蘊中、意識を我とする知見は断ち難く、意識の各種作用を真実と見做す観念は根深く、最難断である。意識の各種機能・作用・体性等が悉く自己に非ざることを深細に観行し、一切の覚知性が虚妄法であり我に非ず、全ての感受・思想念頭・行相・分別了知作用を仔細に観行して初めて我見断ちの望み有り。

我見断ちの観行に当たり、必ずしも全側面を網羅する必要無く、一点を突破し閘門を開けば五陰十八界を悉く透徹し無我を証得し得る。一点突破が他を牽引する。此の一点は個人により異なり、各人の薄弱点に応じて突破口も異なる。因縁に従い定まるべきである。

十四、我見断ち証果は「目で見たものが実、耳で聞いたものが虚」の理と同様

仏は随所で一つの真理を開示される:一切諸法は悉く空寂である。即ち一切法は空にして寂静である。何故か?一切法は各種因縁の和合により存在し、自体性無く真実存在する法に非ず。故に空寂と説く。他面より観れば、一切法は如来蔵の幻化によるもので、如来蔵が主導し如来蔵の影に過ぎず、実質は如来蔵である。一切法無き故に一切法悉く空寂と説く。小乗の空、大乗の空性は悉く此の真理真実を指し示す。

諸根は幻の如く、境界は夢の如し。此等の法を観行するには較深の禅定を要し、各種境界中、六根対六塵において根と塵の虚妄性・不実性・無主宰性・自体性無きことを体得し、定慧を結合融合させる。仔細に観行すべし:眼が色を見る際、眼根が如何に不自在か、色塵が如何に虚妄か、影の如きかを観じる。耳が声を聞く時、声の境界が如何に夢の如く、耳根が幻化の如く、如何に生滅し聴覚作用を起すかを観行し、五蘊空幻・寂静不生を証得する。

此等の法の観行において、初歩的理解は証得に非ず。理解は比較的容易で、意識が一時思惟すれば理解したと錯覚するが、証得には禅定を要し、甚深思惟を要し、証拠確実を要し、意根深層まで深入りし意根の認可を得て初めて証果と呼ぶ。意識の理解は知識に属し、証拠無き或いは不足ならば証得に非ず。深細なる観行を経て、意根が内心深く其の理を真に認可して初めて証果となる。

真に五蘊無我を証得認可した時、六根の虚妄を知り心行が転換し、万物への見方が変化する。自らが虚妄と真に認めれば、内心必ず変化を生じ、従前の在り様と異なる。意識の理解のみで証得無き場合、内心は五蘊の無我を実感せず、自我認知は改まらず、五蘊観念は理論に留まり、心行は依然として煩悩重く三結を断ぜず三悪道を免れぬ。此れは俗世の「目撃実・伝聞虚」の理と同様で、他者の言葉(意識理解)は未検証の為内心虚しく確信持てぬ。自ら目撃し初めて真に了知し「ああ、然り!」と悟り、人事に対し適切な対応を知る。

目撃は意根の証得に相当し、伝聞は意識の理解に相当する。此れは全く異なる次元である。意識の理解は他者からの伝聞、意根の証得は現量知による真実の体得。理解は風聞に類し、実際の目撃とは大差ある。例え人評を聞き印象を抱いても、実際に観察すれば其の印象と異なり、面会後の感覚の方が真実味を帯び、適切な態度を採択できる。

故に我々は心を以て薫習し、諸根如幻・五蘊無我を真に観行せねばならない。観行時は意識的に観察思考し、禅定現前時は意根に観察考量させ、意根を禅定中に観行させ現量証得を成し我見を断つ。意根が観行せねば意識の理を認可せず無益である。意根の速やかな証得には確鑿たる証拠を揃え、現量観察の域に達せしむ。観行過程には多段階の手順・修行すべき法・不断の資糧集積(戒律・忍辱・禅定・智慧等の六波羅蜜完成)が必要である。

十五、如何にして能取所取空を観行し我見を断つか

能取は五陰七識、所取は六塵万法である。能所空を観行するには定力が比較的良好な状況下で観行思惟せねばならない。前提条件として、第一に禅定が具足せねばならず、第二に五陰虚妄の理を粗雑に了解し、了解した内容に従い順次観行思惟し、能取たる七識心の虚妄を観行顕現させる。六識の虚妄非我性を認可し、所取たる六塵万法(五陰世間法を含む)の虚妄・生滅・変異・不実性を観行透徹せしむ。

六塵の虚妄観行は比較的容易である。雑阿含経において世尊は如何に六塵の虚妄を観行するかを教えられた。経文を読みつつ六塵の虚妄を逐一条項ごとに思惟観行すべし。経文に随って観じ、随って思惟し、透徹して理を認可する。思惟観行せず意識が粗雑に理を知るのみでは無益である。此れは甚深禅定中における意識と意根の同時観行、或いは最終的な意根単独の観行を指す。観行成就時、内心は「ああ、然り!」と確信する。此れが意根の認可である。

観行には過程を要し、最終的に内心が「斯くの如きか!」と確信する時、真に了知したことになる。此れは意根の認可である。然らずんば意識心の表面的な知に過ぎず、多大な効用無し。理を説く者は多けれど、実際は内心認可せず、意根が理を解せぬ為である。意根が理を理解し親証するには、一に意識心の伝達薫染に依る。意識が此等の法を観行する過程は黙々と意根に影響を及ぼし、思惟した各法は意根に伝達され、意根は内容を了知し自ら観行を進め理を明らかにする。二に意根が禅定中に自ら無我の理を観行思量し、三昧現前して親証する。

十六、意識が弱い時に意根を薫習するのが最も効果的

西洋の心理学者が述べたように、潜在意識に物事を記憶させる最良の方法は、半覚醒の朦朧状態或いは睡眠に類似した状態に入ることである。此の状態下では、意識レベルの努力が最小限に抑えられ、全ての考えが映像を通じて静かで受動的且つ受け入れ易い方式で潜在意識に伝達される。此れは意根を薫染し催眠する優れた方法であり、我見を断ち煩悩を降伏させるには此の自己催眠法が最速且つ有効である。自己催眠は直接的に意根に五蘊無我性を了別受容させ得る。

弛緩・静寂・うとうと状態・目覚め直後の状態――此等は悉く定有りの状態である。六識が活動不能で造作無く、心散乱せず、意根が情報を受容し薫習され易い。此時、意識存在すれど其の思惟力・推理分析等の機能は制限され、意根は自らに依存せねばならず、意根の思量作用が顕著となる。此の時こそ意根を影響・説得・薫染し改変する最良の機会である。我見断ちの観行も此の状態下が最適で、定有り意識有り、意根の作用力大なる故、影響力も大きく、五蘊非我の思想観念を意根に伝達注入し認可受容させ得る。

十七、意識が意根の実証に及ぼす影響力

一切法の証得は、現観の結果であるべきで、想像や分析による結論では無い。現観とは何か?現観とは現量観行・現前観行であり、六根が六塵に対し当体において、諸法の出生・運行・生滅変化を現前観察体験することである。意識の現量観察や思考結論が事実か否か、意根は不断に判断を下すが、時には正しく時には誤る。意根は経験が限られ智慧不足の為、誤判断し易い。意識の現量観察と充分な思考分析は意根を薫染し推進する。意識の観念が理路整然たる時、初めて意根の智慧を啓発し、意根は此れに基づき自ら観察考量し親証に至る。意識の非量なる想像推論は意根に影響力無く、実証を促せぬ。

意根と身心は密接に繋がり離れず、意根の現量証は身心に不同程度的変化を促す。何故事意根と身心が此れ程密接か?第八識が一切法を変現し、一切法を見る故である。意根は第八識の見分に依り、自らの身心境界を含む一切法を見、此等の法を自らの所見と見做し不断に攀縁し執着する。かくして意根は一切法に作用し、身心世界を調整制御し、身心を通じて種々の情緒を発散させ、身心世界に諸変化を起こす。此れが意根の遍計所執性と時処を選ばぬ主宰性の顕現であり、我執法執の表れでもある。

意根は意識の不正思惟にも影響薫染され、誤った決断を下す。無始劫来、意識は故意無意に意根を欺き「五蘊は我なり」「一切法は我の所有なり」「五蘊世間は美妙楽しく追求すべし」と吹聴して来た。意識は邪師の役割を担い、意根を世俗五欲に貪染させ五蘊自我に執着させた。我見断ち前後より、意識は意根の良師益友となり、自ら改心後、意根を改心させ、共に煩悩降伏・無明断除に努め、識を転じて智と為し、並肩して前進する。

十八、我見断ちは意根と相応する

五蘊無我の理を意識の深細なる思惟観行により、全ての証拠資料を徐々に意根に提示し、意根が受容して自ら観行すれば、五蘊無我を確認できる。証拠資料が充分であればある程、現量境が多く提示され、意根の思量と相応し易い。意根は現量境を承認し、非量の想像とは相応せぬ。意根は五蘊が空なることを知らぬが、定中観行により事実を顕現し此の理を認めざるを得ない。従前は意識が多寡有れど無我の理を知るも、意根は慧浅く境界了別能力不足の為深細思惟できず、理を解せなかった。

意識の分析思惟理解は解悟に属す。此れは定力不十分で意根に深入せず、意根が理を明らめぬ為である。定力強ければ意識の思惟は深入りし、表面的理解を控え、意識の活動を緩慢にし意根の思量性を発動させる。意根自ら理を明らめれば、意識も必ず理解する。定浅く意識分析が多い時、意識は理解容易でも意根への証拠提示不足で、意根の思量性も不十分なら意根は理を解せぬ。

意識が分析を控え意根に思量を委ねれば、五蘊無我を証悟できる。意根の認可する力は甚大で、自心を改め身口意行を転じ、業行・業種を変革する。此の修行は大いなる捷徑である。意根に多用功させ現量証得せしめんと欲すれば、禅定に深入し意識の活動を抑制すべし。此れが参究の原理である。古来禅師は悉く此の如く学人に「心意識を離れて参禅せよ」と教えた。分析せず情思意解せぬよう戒めたが、其の深奥の理を必ずしも解せず、意根の功用が唯識種智の領域に属することを知らなかった。唯識種智を生起せざる禅師多かりき。

我見断ちの原理も参禅と同様、意根自らの参究を要し、意根に密かに五蘊無我性を思量せしむ。意識は定中で深細に思惟し緩慢深く活動すれば、意根に深入し無我性と相応し得る。意根の全機能体性作用を発掘すれば、修行は大捷徑となり、最大の近道となる。我々は跳躍的修行により成仏を速やかに遂げ得る。

十九、心の結び目を解いて初めて解脱を得る

解脱を得んと欲すれば、我見を断ち、意根が五蘊と三界世間への攀縁を断たねばならない。意根が徹底的に攀縁せぬ為には我執を断じ、五蘊と三界法に執着せず、四果人でなければ成し得ぬ。無想定には意識無きも、外道は色身に執着する故、色身は滅せず。身を我と見做す為三界を出離できず、我見未断の故である。意根が三界世間の一切法に微塵の興味も無く貪愛を断尽し、五蘊十八界に毫も執取せねば、我執断尽し命終時に意根自ら滅し無余涅槃に入り三界を出離する。

真の解脱は心の解脱である。意識と意根が五蘊自我に執着せず、財色名食睡を貪らず、色声香味触を貪らぬ時、意根は五蘊より縄索を解き身心の束縛を脱する。生死の結び目が解け、生死法は再び心を縛れず、心は解脱する。五分解脱の最後は解脱知見である。知見が解脱し邪見の束縛無く正知見が確立すれば邪見は消滅する。此れは智慧の境界である。此の知見に依り生死苦海を出離する。正知見の確立は最難事で、邪染甚だ深き故である。仏法修行は不断に心の結び目を解く過程であり、結び目が解けて初めて解脱を得る。

二十、我見を断ち得ぬ理由

我見を断ち得ぬ理由の一つは、初期段階における意識が五蘊虚妄の内実を透徹せず、意根に渡す資料が不完全な為、意根が内容を曖昧模糊にし参究不可能なことにある。意識自身も資料不足を認識せず、思惟と証拠収集を怠る。意根は「巧婦米無きを為す難し」の状況に陥る。加えて意根の攀縁心が降伏せず禅定力不足の為、参究成就せず。多くの者は参究開始さえせず、意識が前段階作業を完遂せぬ為、意根が後続作業を継続できぬ。

意根は審判者・検証者・検閲者である。意識の全ての思惟分析データは意根の検証を経ねばならず、如何に精緻正確であれ、意根が検閲し認可せねば通関されぬ。例え部下が業務を完遂し上司に承認を求めても、上司は一瞥・検査・審査を経ずに合格判定し報酬支払いはせぬ。最低限目を通し、厳格なら審査期間を設け調査し確信を得て初めて承認印を押す。意識と意根の関係は正に此の如し。

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