五蘊の観行による我見の断ち(第一部)
第八章 我見断ちの検証基準と特徴
第一節 未到地定具足して初めて初果を証得可能
一、『瑜伽師地論』巻53 原文:若依未至定。証得初果。爾時一切。能往惡趣惡戒種子。皆悉永害。此即名爲。聖所愛戒。
ここに明確に示される如く、初果を証得する時は必ず未到地定が存在し、証果後三悪道の業種が断除され再生起しない。三悪道へ赴く業を造作せざることを、聖人たちが愛楽する戒行と称する。
未到地定が具足せず、或いは未到地定が無ければ、実際に五蘊を観行できず、真に五蘊我を否決できず、五蘊我の知見を断除できず、証果して法眼浄を得ることは不可能である。意識心の五蘊無我の知識は単なる知解に過ぎず、証とは成らない。意根による実証こそが我見断ちであり、確信疑い無くして初めて知見結縛を断除できる。禅定は意根と緊密に連結し、禅定有る時は意根が煩悩妄想に蔽われず、六識の不断了別に妨げられず、精進用功して証果し真理を明らかにする。
二、証果後における五陰観念の転変
五蘊虚妄非我を観行する中で、多くの者は時に単に心中で五蘊十八界が虚妄であると軽く認めるだけで、自らが我見を断ち初果を証得したと錯覚する。実際には真の我見断ちからは程遠く、これらの知見は第六識の極めて表面的な認知に過ぎず、意識は五蘊虚妄の理を深切に認可せず、如何なる虚妄性かを知らず、意根の認可も得ていない。この如き軽率な我見断断自認は誤解であり、真の我見断ちではない。
意根が五蘊虚妄を未だ認同していない段階では、真に五蘊非我を証得せず、我見を断除せず、三結も断除されず、三悪道の業も消除されない。この種の観行は口頭に留まり、深細具体性を欠き、内心深層に五蘊非我の観念無く、心行も転変せず。もし単に意識の粗浅な理論理解と非体系的不徹底な思惟に留まるなら、真実の受用を得られない。
多くの者の修行は第六識に停滞し、口では空を唱えつつ行動は有に留まる。この如き仏法修行は自らを転換できず、何等の受用も得られない。その原因は、第七識が第六識の粗浅な理論分析を認可せず、多くの場合第六識が体系的な思考観行を経ず、第七識は意識の不断なる深細思惟観行を基盤とした禅定中の自覚的観行を必要とし、以て理を明らかにし法を証得し、五蘊非我の理を証得するためである。第七識の攀縁範囲は余りに広く、一切法を了別する智慧不足のため、第六識が意根観行を補助せねばならず、意根は初めて智慧的認知を生起し理を明らかにし法を証得する。
口先で修行を語りつつ、内心少しも実践できない者が多い。全て意根が理を明らかにせず降伏を得ていないためである。例えば仏教徒は布施が福徳を速やかに積むと信じ、布施の機会に遭遇すれば一定の財物を布施すると承諾するが、実際に布施する時には躊躇し、或いは口実を作り布施しない者もいる。何故か?意識が布施を望むのは表面的現象で、意根は未だ布施の真の利益を了知せず、財物への執着性が依然堅固であるため、財物を捨てられないのである。
一切の行いは意根が主宰する。五蘊の虚妄を観行するにも意根が証得せねばならず、長期にわたり意根を薫修し彼に理を明らかにさせ、定中で自ら参究させる必要がある。彼の執着性が漸次緩み軽減されれば、修行は効果を発揮する。意根は我執識であり、無始劫以来の煩悩習気を帯びており、変更困難である。四果阿羅漢に至って初めて彼の執着性を断除し、命終時に自らの五蘊を捨て無余涅槃に入ることを肯んじる。意根の我執を断除する前提条件は、先ず我見を断じ、後に漸次執着を断つことである。
三、三十七道品の修行から我見断ちを検証する
世俗界で仏法に触れていない者の中にも、身体が生滅無常で真実でなく、己が用いる仮の殻に過ぎないと考える者が存在する。これらの者は身見を断ったか?彼らの中には飲食・衣類・住居・用具に無頓着で、病があっても気にしない者もいるが、彼らは身見を断ったのか?否である。彼らが身体を気にしないのは貧困・吝嗇等の因縁条件による制約や、他の方面への追求により暫時色身を顧みないためである。一旦条件が具足すれば、依然として色身を愛着し貪愛し、色身の享受を求める。
身見断ちは全面的検証を要する。戒定慧から検証し、三十七道品の観点から検証し、心念から検証し、心行から検証せねばならず、一部分で全体を推測してはならない。身体に関する些事に無頓着な者でも、生活条件不備・内心愚痴・身体関連の他事への注意転移・特殊な目的性が存在し、身体のために三悪道業を造作し、所有する物質的生活を放棄しない限り、身見断ちではない。
一切の身口意行は種子を形成する。記録文書の如く、神通力を有する者は随時閲覧可能で、この記録は永劫消失せず(但し業種は消失し得る)。執着有れば執着の業種が、不執着有れば不執着の業種が生じ、如来蔵の記録が異なれば果報も異なる。即ち、一つの行いでも心行が異なれば如来蔵の記録・業種・業報が異なることを意味する。
四、実修行は想像より遥かに困難である
多くの者が仏法を二年学び、五蘊は我に非ずと考え、直ちに我見を断ち初果を証得したと主張する。このような認識は極めて浅薄で、何らの問題も解決しない。必ず深細周到な観行を重ね、内心の認知を徐々に転換し、意根を触発させ、意識と意根の両識が従前の錯誤認知を転換させ、五蘊自身に対する新たな認識を獲得し、相当程度の転変を経て初めて我見を断ち得る。
我見断ちは容易ではない。無始劫以来衆生の邪見は余りに深く、一朝一夕・数朝数夕の言説思惟で除去できるものではない。長劫にわたり五蘊を我と見做す習性は根深く、短期間で不正知見を矯正できるものではない。仏法の修証は容易ならざるもので、実践経験者は皆知る。修養無き者のみが独善的に「証果成仏は極めて容易」と妄言する。未経験者は空想するのみで、空想上の事柄は当然容易に思われ、実践開始して初めて困難を覚える。
常に新奇を求め、急功近利を好み、大業を貪り、自らを特殊非凡と見做す願望――これら全てが「我」である。この我は除去困難で、真にこれを清除するのは極めて困難である。この様な忠告を聞きたがらぬ者も存在するが、如何に不承不承でもこれが事実である。忠言耳に逆らい、良薬口に苦しと雖も、自らに有益無害である。
前世より久遠劫より修行を始めた者は、劫毎に生毎に世毎に無量の仏法を薫陶し、相当なる経験を積み、多くの事理を見透し、親身に数多を感受し、善根・福德・智慧が深厚であるからこそ、仏法の修証がそれ程単純容易でないことを深く知る。経験乏き者のみが修行を極めて容易と看做し、法華経或いは何らかの経典を読誦するだけで成仏し、意識が些か何かを知っただけで、実は真相を解せず、自らが大成就したと自認する。実際これらの見解は我慢であり、大いなる我慢である。我見が根深く、かかる者の我性は更に深刻で、我見断ちは更に困難となる。
我性重き者は多種多様な表現を呈する。あらゆる手段を講じ、己が我を顕示し、全ての者に認識され理解され、称賛され崇拝されることを求める。かくして初めて快適を覚える。この快感こそが自大である。自我が肥大化し高揚する程、我見は更に重く、断除は更に困難となる。
五、如何なる者が自らを検証できるか
仏法を学ぶ修行者は着実に一歩一歩修行を進め、確固たる基盤を築き、真に我見を断ち明心すべきであり、単なる理解や解悟に留まってはならない。これには禅定の基礎修養が不可欠である。私が繰り返し禅定を要求するのは、身心転換と解脱の根本的要件であり、禅定無き結果は解悟に過ぎず、決して証悟ではない。証果と明心の基準を提示し、全てこの基準に照らして自らを検証し、真に我見を断じたか、或いは単に理上の認知に留まるかを確認せねばならない。仏法修行者が狂躁や浮ついた心を排すれば、必ず最大の利益を得られ、仏教も確実に発展する。
但し私は依然として各自の自己検証を推奨しない。経験不足の者は内奥の微妙な点を把握できず、自己を甘やかし容認しがちで、解悟者に留まり実際の観行ができず、半生半熟の状態に陥り、道業の進展が困難となる。直接検証を受けることで観行智慧を大幅に向上させ、以後如何なる法に対しても観行可能となり、智慧と道業が飛躍的に進歩し、修行時間を大幅に節約できる。
解悟者は公案を幾らか理解し説明できるが、詳細は不明で「其の然る所以」を知らず、観行智慧を欠く。初果・二果の自己検証は望ましくない。此処の尺度は極めて把握困難である。自らの貪瞋痴煩悩が淡白と感じ二果と自認する者がいるが、貪瞋痴淡白の基準概念を理解せず誤謬を犯し易い。瞋心の淡白は把握し易いが、貪心の淡白は把握困難で、貪心は微細であり自覚し難い。例へば情執も貪であり、情執重きは貪心重きに等しい。習気深き者は自らの情執の深刻さに気付かず、往々にして貪心淡薄と錯覚する。
痴心は更に把握判定困難で、自ら愚痴の状態にあればその程度を判断できず、経験者にのみ各人の痴心程度が看取できる。慢心は万人に存在し、四果に至って初めて根本的に抜去される。各人の慢心程度は異なり、習気重き者は既に慣れ適応している為、自らの慢心淡白を検出困難となる。慢心過重の者は二果を証得できず。衆生はこれらの点を自ら把握できず、故に自己による果位認定は危険である。長く糞坑に居れば臭気を感じず、習癖化し適応した煩悩習気を自覚できず、反観し難い。