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五蘊の観行による我見の断ち(第一部)

作者: 釋生如 分類: 二乗の解脱 更新時間: 2025-02-25 閲覧回数: 3132

第二節 識心を観行して我見を断ずる

五陰とは色陰・受陰・想陰・行陰・識陰である。色陰は色身の機能作用、受想行識の四陰は六識の機能作用であり、合わせて五陰となる。色陰も六識の作用を離れられない。

一、六識の三種の受の無我を観行する

受陰は六識の感受であり、苦受・楽受・不苦不楽受の三種を含む。眼識に受あり、耳識に受あり、鼻識に受あり、舌識に受あり、身識に受あり、意識に受あり、六識全てに受がある。例えば眼が色相を見る場合、仏像を見ようと花を見ようと、どの色相を見ても眼識には受がある。光線の明暗や眩しさ、色塵の快適さ等を感じ、意識心も快・不快・好悪・捨受を感受する。太陽光を見た時、眼識は眩しさを感じ回避し、或いは温和な快適さを感じ好み貪愛する。これが眼識の苦受・楽受・不苦不楽の捨受である。仏像を見る時、眼識は仏像の色彩光沢を好み、形態を喜び、意識心が三十二相八十種好を分別すれば崇敬喜悦の感受が生起する。

苦受とは好ましくない受、内心に苦悩を感じる受である。楽受は快適で好ましい受、不苦不楽受は淡く好悪の判断がつかず無関心な心境、即ち捨受である。これが眼が色を見る時の受である。受陰は意識心の感受を主とし、意識心の了別内容が広範・繊細・深遠で内実が豊富なため、意識心の受は観察しやすい。眼が色を見る時の感受は因縁所生法であり、生滅変異無常である。故に虚妄で不実で幻化的なものであり、生滅変異無常なるものは苦であり、苦なるものは私でない。従って受陰は私ではない。

耳が音声を聞く時に受が生じる。耳識心が特に耳障りと感じ苦受を生じ回避を望む場合もあれば、特に柔和と感じ喜楽貪愛を生じる楽受の場合もある。音声を聞く際、意識心も受を有し、騒音と感じれば苦受を生じ、柔和と感じれば楽受を生じ、特に意味を感じなければ不苦不楽受を生じる。意識心が音声の内実を不雅或いは攻撃的と感じれば苦受を生じて聴くことを好まず、賞賛の言葉・興味ある内容・柔和な音楽であれば楽受を生じて聴取を好む。

意識心も苦受・楽受・不苦不楽受に分かれる。耳識心も同様に、好むものには楽受を、好まざるものには苦受を、或いは苦楽を離れた捨受を生じる。時に音声を聴いても無関心で好悪を感じず、聴いても聴かなくても同様に感じる場合、これが不苦不楽の捨受であり、耳が音声を聞く時の感受である。

受陰虚妄を観行する際は、この感受が如何なる因縁の集合から生じたかを観察する。因縁が集合して現れたものは幻妄である。音声・耳根・耳識・第八識・意根・種子等の因縁が集合して初めて音声を聞き感受を生じる。故に識心が音声に対してもつ如何なる感受も虚妄であり、全ての感受は生滅変異無常の因縁所生法で空である。従って受陰は私ではない。これらの感受を観行し尽くせば全て苦受に帰着し、苦なるものは私でない故、受陰は私に非ず。

鼻が香を嗅ぐ時、鼻識心と意識心は共に苦・楽・不苦不楽の感受を有する。例えば芳香を嗅ぎ好ましく感じ喜びを生じる場合、意識心の楽受と鼻識心の楽受が存在する。悪臭を感じ嫌悪の苦受を生じる場合、意識心の苦受と鼻識心の苦受が存在する。香りも臭いもない中性の気味であれば、好悪の判断がつかず無関心な捨受となる。

舌が味を嘗める時に受が生じる。苦・楽・不苦不楽の三種の感受を生起する。口腔に食物がある時も無い時も受があり、食物が無い時は通常淡白な味で慣れ親しみ特に好悪を感じず、これが不苦不楽の捨受である。体に熱が籠った時、口腔に苦味を感じる場合、舌識心も意識心もこれを好まず苦受となる。座禅中に津液が口腔に流れ込む時、舌識は甘味を好み意識もこれを好み、両者に楽受が生じる。

特定の飲食を味わう際、舌識と意識は好む飲食に楽受を生じ、好まぬ飲食に苦受を生じ、好悪の判断がつかぬ飲食には捨受を生じる。修行者は味塵に貪着せず、飲食に対し常に捨受を生起させる。味塵の良し悪しを気にせず満腹足れりとするのが修行者の心態である。味が如何であれ全て無関心で選り好みせず、好悪を生じない。これが修行者の捨受である。これらの感受は因縁所生法であり、生滅変異無常の虚妄で全て苦である。苦なるものは私でない故、受陰は私に非ず。

身が触を覚える時、三種の受が生じる。身識と意識は共に感受する。例えば歩行時、疲労や倦怠感、身体の快適さ・不快感、温冷感、飢渇感を身識と意識が了知し、苦受・楽受・不苦不楽の捨受を生起する。修行者は一切の感受に拘らず、身体が如何なる状態でも容認する。疲れても寒くても熱くても飢えても渇いても、あらゆる状況を耐え無関心を保つ。これが修行者の捨受心境である。これらの感受は全て因縁所生法であり、生滅変異無常の虚妄で苦である。苦なるものは私でない故、受陰は私に非ず。

更に独頭意識の受がある。散位の独頭意識が思慮回想する際、苦受・楽受・捨受を生起する。夢中で様々な夢を見る時も苦受・楽受・不苦不楽の覚受を生じる。定中において特定の定境が現前し意識心がこれを覚知すれば、主に愉悦的快適軽安の楽受を生じ、四禅以上では捨受となり、欲界定では苦受も生じる。これらの感受は全て因縁所生法であり、生滅幻化不実で無常空である。楽受も過ぎ去れば苦と感じる故、一切の受は苦受に帰着し、受蘊は私に非ず。

二、如何に対治すべきか覚受

受陰は六塵の境界に触れ、境界への了知性が生じ、甘さ・痛み・景色・香気・音声等を認識した後、苦受・楽受・不苦不楽受が現れる時に出現する。六識が六塵に作意し、触れ、領受領納し、想い了別し、受陰を感受し、思惟し択択決定し、行陰が造作する。

日常において自らの各種覚受を詳細に点検し、何に貪愛し、何事に執着し、何事に心思精力を費やすかを検出する。検出後は、これが如何なる心理か、意義は何か、結果は何かを分析し、自らの貪愛と覚受に対治する方法を考案する。常時これを行えば修行上の障礙を除去し、道業の進歩が速まる。

三、想陰無我を観行する

想陰とは、想は心上に相を生起させ、この相を了知し執取し、更に名言覚観を生起させることである。例えば眼前の壁を見て「これは壁である」と了知し、眼識と意識が壁の相を執取し、壁に関する言語文字や考え方を生起させる。これを想という。了知・覚観等の心理活動と機能作用を想陰と呼ぶ。

想は何時現れるか。想陰は六想身であり、六根が六塵に触れる時、想陰が現起する。眼が色を見る時には想が生じる。例えば眼が仏像を見て仏像と了知し、仏像として執取し、仏像に関する言語文字を生起させる。この了知には眼識の了知と意識心の了知がある。眼が色を見る時の想陰と了知性は各種因縁に依存して出生し、一つの縁が欠けても出生せず、一つの縁が滅すれば了知性も滅する。想陰は生滅変異無常で虚妄・苦である故、想陰は私に非ず。

音声を聴く時には想が生じ、心中で音声を了知しその相を執取し、音声に関する名言を生起させる。これが想陰の現れである。「これは何の音か」「この音の意味・内実は何か」「善悪如何か」「自己や周囲への利害関係は何か」等、全て想陰の範疇に属する。想陰の出生過程を観察すれば、音声を聴く時の想陰も因縁所生法であり、特定の因縁に依存して生起し、因縁不具足では出現せず、因縁滅すれば想陰も滅する。故に想陰は生滅変異無常で虚妄・苦であり、想陰は私に非ず。

鼻が香を嗅ぐ時には想が生じ、鼻識と意識が同時に香塵を了知し、香塵の名言概念を執取し、香塵への覚観思惟を生じる。鼻識は香臭が鼻を刺激するか否かを直接感知し、意識は香塵の内実を了別し、どの物体が発散したか、身体への影響を認識する。この知は香塵の相と香味の名相を執取する。続いて後続の覚観思惟が生じ、各種の考え方・見解・知見を生起させる。これが鼻が香を嗅ぐ時の想陰である。この想陰は各種の縁に依存し如来蔵から出生する因縁所生法であり、不実在法で生滅変異の無常法は空である。空なるものは苦である故、想陰は私に非ず。

舌が味を嘗める時の想陰、舌が味を嘗める際、舌識と意識は酸味・甘味・苦味・辛味等を了知する。了知後、この味塵の名相を執取し、続いて名言分別・覚観思惟が生じ、各種の心行が現れる。これら全てが想に属する。これ即ち因縁所生法であり、因縁所生法は即ち空である。故に想陰は私に非ず。

更に身が触を覚える時には想が生じる。身体の各種覚受への了知が想である。例えば現在が空腹か満腹か、疲労状態か快適状態か、足底が地面と接触する感覚等を了知し、続いて名言覚観思惟が生起し一連の思想活動が現れる。これらの思想活動は全て因縁所生であり、生滅変異無常の虚妄・空・苦である。従って想陰は私ではない。

更に意識心単独の想がある。回想・計画・打算・妄想・問題思考・事理観察等、これら全て意識心の想に属し、続いて名言覚観を生起させ名相を安立する。この独頭意識の想は第八識・意根・法塵等の各種因縁に依って生起する。故に虚妄無常変異法であり、苦・空・無我である。

四、如何に想蘊の不真実を観行するか

想自体が生滅無常である。絶えず想い続けることは不可能であり、内容を転換せず一つの事柄を永続的に想うことも不可能である。意識が如何に想おうと、意根がその事柄を重要でないと判断し、更に重要な事柄が生じれば意識は他事に移り、再び想う心思は消滅する。夜に想い寝付けぬのは意根が事柄を放さず意識を思考させ続けるためで、意根が心を空にし事柄を放てば意識は直ちに滅し睡眠に至る。

生滅変異する想は来る所なく去る所無く、来る時は跡無く去る時は影無し。何処に想が私と見えるか。思念が千々に乱れる時、思想の念頭を追跡しても遂に跡を掴めず、正に思想する時も念頭は空である。何が念頭か。何が思想か。念ずる人事は何処にあり、想う事理は何方にあり、思う識心は何物か。捉え得ず了々として得る所無く、空空たり。生滅無常の法は説き明かす術無く、執着し得ず再び尋ねても毫も跡無し。

昨夜の枯枝は風雨に襲われ、今朝は霧露に斜陽が照らす。前世に念念とした故人の情も、今生では相忘れて赤の他人となる。何を想う必要があろうか。

五、行陰の観行

行陰とは、行は六識の身口意における種々の運転施為活動、六識が造作する各種機能作用を指す。実際には第七識の運行活動も含まれる。第七識自体の運行活動も自心を遮蔽し第八識の機能作用を陰蓋するためである。行とは運行・運転・運動を意味し、動くもの、造作中のもの、各種作用を起すもの、変化するものは全て行陰に摂される。

身行は身体内外の一連の活動を指す。身体外見の活動は他者に認知可能で、内面的活動は他者に認知され難い。外見的活動には行住坐臥・迎送往来・屈伸俯仰等の肢体の運転施為活動が含まれる。内面的活動には呼吸・血液循環・心臓脈拍の鼓動・細胞の新陳代謝等が含まれる。口行は言語・音声・文字の表現、内心の各種覚観等を包含し、有意義・無意味な言語音声、貪瞋痴性のあるものと無いものの言語音声を含む。意行は意識内心の各種思想活動を指し、有意義な思考活動から無意味な雑念妄想まで、貪瞋痴性のあるものと無いものの心理活動及び心所法を含む。

行陰の具体的な表現は、六識の思心所の運行であり、生起する思量と抉択活動である。六識の全ての心所法の運行は行陰に属する。眼が色を見る時、眼識の種子が次々と送出されると、眼識の心所法が運行を開始する。一つの心所法から次の心所法へと順次運行され、眼識は了別分別活動を行う。これが眼識の行である。

耳識の行は、音声を聴く際に耳識の種子が次々と生起し、心所法が絶え間なく運行する。作意の後に触れ、受を生じ、想を起こし、思惟し、各種の思量と抉択を生起させ、耳識は不断に了別分別活動を遂行する。鼻が香を嗅ぐ時、鼻識も行陰を有する。鼻識の識種子が次々と送出され、鼻識は絶えず了別活動を行い、心所法は不断に運行する。舌識の行陰は、味を嘗める際に舌識の識種子が次々と生起し、舌識の心所法が不断に運行し、思量と抉択を生起させ、味塵の了別活動を継続する。

身識の行陰には識種子の送出と心所法の運行が含まれ、身識は常に各種触塵を了別し、思量と抉択を生起させる。意識心の行陰は、識種子の送出と心所法の運行を含み、意識自体が不断に行う了別識別活動を指す。これらの活動を構成するのは識種子の運行である。故に如何なる活動も全て生滅する虚妄のものであり、私に非ず。

六、識陰の虚妄を観行する

識陰とは六識の識別性・了別性である。例えば眼識が色を見る機能は、眼識の色塵に対する了別・分別作用であり、これが眼識の識陰である。六識が六塵万法を分別する機能的作用、六塵を了知する機能的作用を識陰と呼び、六塵を分別する全過程が識陰の運行過程である。

六識分別が生起する前提条件は:第一に六根が存在し正常で損傷異常がないこと。第二に内六塵が存在すること。第三に意根が六塵に作意し了知を望むことである。この時六根と六塵が接触し、第八識が六識を出生させる。六識が出生すると同時に五遍行心所法が六塵上で運行を開始する。

実際、六識が出生しようとする種子位において既に六塵境界に作意し、その後六識が生起して六塵に触れ、最終的に思心所が六塵境界を確定し決定心を生起させる。最終決定が生起した後、六識は当該六塵境界の了別を終え、注意力を他の六塵境界に移し、分別了別活動を継続する。六識が複数目標を同時了別し注意力が分散すれば定力は生じない。これにより六識の了別慧が不足し、了別性が弱く了知が不明瞭となり誤りを生じ易い。定力が強く訓練を積んだ者のみが一心多用・一心多能を可能とする。故に六識の集中力を訓練すれば智慧が生起する。

六識及び第七識は全て第八識が送出する識種子から出生する。これらの識種子が次々と送出され、六・七識心を形成する。六・七識心が形成されると同時に運行を開始し、了別分別の作用を起こし一切の境界を了知する。識心も識種子の刹那生滅から生じる識である。水流に喩えれば、一滴一滴の水が水流を形成する。水流を六・七識流に、水滴を識種子に喩える。識種子を電子に喩えることも可能である。電子は形相なく見えないが、スイッチを入れると電子が次々と送出され、順序正しく流れて電流を形成する。電流が電球を通れば光を発し、電子の機能的作用が顕現する。

これらの識種子が第八識から次々と送出され識流を形成し、六識が現れ六塵を分別する機能作用を有する。識種子が一つ生滅して第八識に戻り、次が生滅して戻る過程が連続し、六識が形成される。心所法が連動して了別性が生じる。六識の了別は本質的に断続的であるが、流転が速すぎて断滅現象を発見できない。

電子に喩えれば、一つの電子が生滅し、次の電子が生滅する過程が連続して電流を形成する。電流は一見連続的だが実際は断続的であり、生滅が速すぎて断滅を感知できない。但し電子の出力が緩慢になれば電流が弱まる現象は観測可能である。

水流も同様で、水滴の出力減少や分流、速度低下により水流が弱まる。同様に六識が異なる六塵境界に作意し触れれば、識の分別性は水流が分流する如く減退する。識種子が分流すれば識別の勢いが弱まり、了別性も劣化し智慧が低下する。禅定修行は六識を一つの境界に集中させ、作意を一処に定め触を一処に限定する。これにより識が分流せず勢いが強まり、分別性が高まり智慧が増大する。

六識の虚妄を観行し識心の我見を断ずるには、識心の虚妄性・無常性・識種の刹那生滅性を思惟する必要がある。識心の虚妄無常を観行するには六識心の無常を観る。識種子が形成する識は水滴が形成する水流の如く、水滴が高速で連続流出し循環流注して連続水流を形成する。真実の水流が存在すると考えるのは錯覚であり、水流の仮相に欺かれた状態である。識種子が次々と高速流注して識を形成し、連続的識心分別が存在すると考えるのも同様の錯覚である。この理を深く思惟すれば識心を我とする邪見を断じ得る。

識心の刹那刹那生滅性を観行すれば、あたかも連続不斷の分別了別作用が形成される。この識心の分別了別作用は虚妄なのか。無論全て幻化不実で真実の分別性は無い。識心及びその分別機能作用は断滅すれば即ち断滅し、生滅変異無常の虚妄で因縁有る法である。因縁あれば識は出生し、因縁滅すれば識種は出生せず識は消失する。故に六識は真実の我ではない。

第八識が識種子を流注しなければ六識は了別作用を失い、眼あれど色を見ず耳あれど声を聞かぬ現象が現れ、一切法を了別できなくなる。平常時に六根が六塵に触れる処、六識が六塵を了別する処で観行を行う。一切法を了知するこの識心の虚妄性・生滅性・無常性・無我性を観行する。これにより識心が私であり真実で永遠存在するという邪知邪見を断除し、識心の我見を断ずる。かくして識心は私でなく、その機能作用も私でなく、全て不実で虚妄であることを知る。我々が一切事物を感受する心、一切事物を了別する識心、この識心が造る身口意行も全て虚妄・無常・空であり、無我である。

七、識心が何故無常であるか

第一に、識心は念念遷流して住まず、刹那刹那に生滅する。識の種子によって形成される。例えば電流は一つの電子が次々と相続不斷に生滅流転し、流動性を形成する。この流動性が電流であり、光を発生し発光する機能作用を有する。識心も同様に、一つの種子が次々と流出し識心流を形成する。最初の種子が流出し滅び、次の種子が同一位置から流出し滅び、三番目の種子が流出し滅びる。このように識流が形成され識の分別性が生じる。最初の識種子は六塵に触れても明確に分別できず、次の種子が続いて分別を試みるが依然不十分で、三番目の種子が流出する頃に漸く幾分分別が可能となる。種子が流出するほど分別は明確化する。

これらの種子は第八識内に存在し、第八識から送出される。眼が色を見る時、最初は不鮮明で時間を経て初めて明確に認識できる。六識の分別は全てこの原理による。仏が説く如く、一弾指の間に八万一千の生滅種子が流注する。一つの生滅が終わり次の生滅が始まる連続不斷の種子流によって、識心は一切法を分別できる。故に識心は刹那生滅の無常法であり、無常なるものは私ではない。

第二に、識心は五つの状況下で滅する:無夢睡眠時・昏倒時・死亡時・無想定入時・滅尽定入時。これらの状況では見聞覚知性が無く、識心の分別も存在しない。識心が滅し得る以上、無常・変異・苦である故、私ではない。

第三に、識心は無から有へと生じ、本来存在するものではない。六根が六塵に触れる時、第八識が六識を出生させ六塵を分別する。識心が出生される以上、本来有るものではなく、虚妄・無常・苦・変異の法であり、我性を持たない。

第四に、衆生の識心は常に変化不定である。直前に好んでいたものが瞬時に嫌悪に転じ、得意としていた考えが直ぐに変わり、定めた計画が即座に取消される。心念は常に変化し続け、思考は不断に改変される。一つの妄想が生滅し、後念が前念を否定し、発した誓約の履行は困難で、喜怒哀楽は無常、計画打算は常変である。自らも己の心を捉え得ず、何を為すべきか如何にあるべきかも判然とせず、他者には更にその心思が測り難い。この心を観察すればする程無常不確実と感じる。故に識心は不真実で、真実確実・依頼可能な私ではない。かくして識心虚妄の観行が完成し、意根が三昧中にこの理を認可すれば、識心を我とする邪見を断じたこととなる。

八、識陰の観行

五陰受想行識中の識陰を観行するには、識種子が七識の機能作用を生成する過程を観じ、特に六識の機能作用に重点を置く。受想行識の識種子が送出され六識が形成された後、六識の各種機能作用が生起する。六識が出生すれば受覚が生じ、識覚の分別作用が現れ、行覚が起こり、受陰・想陰・行陰・識陰のあらゆる機能作用が展開する。具体的な機能作用を逐一詳細に観察し、一つも見逃さぬよう注意する。識種子が出生した後、識心がこれらの作用を持つことを了知することが重要である。これを明察すれば大乗小乗共に証悟できる。

識陰において主に観察すべきは受の虚妄性である。五陰は依然として受陰を中心とし、衆生は自らの覚受を真実と見做し、覚受を基盤に五陰の身口意活動を展開する。この受覚が如何に不真実・生滅・空・苦・非我であるかを観察する。次に想陰と行陰を観じる。想陰とは執取・取相を指し、心上に相を取り了別分別する行為、或いは種々の思想思惟である。行陰は識が存在すれば必ず行を伴う。識が運行した後に初めて受・想が生じ、分別の機能作用が現れる。識種子が識を形成する内容を明察すれば、大乗小乗の法は全てここに帰着し、将来証悟する智慧は非常に深遠となる。開悟すれば一気に唯識の域に達し、禅宗の悟りよりも遥かに深透する。識を悟得すれば智慧は極めて深まり、速やかに唯識種智を具備するに至る。

九、生滅変異するものは全て私ではあり得ない

識種子が生起して初めて五陰の機能作用が現れる。生起しなければ五陰の機能作用は存在しない。ではこの五陰の一切の機能作用は真実か。私なのか。私はこのように限定され主宰されている存在か。生滅定まらぬ存在か。このように捉え難い五陰の機能作用が真実の私たり得ようか。食事しなければ生存できず、空腹で死に至る五陰が私たり得ようか。空気がなければ生命活動を維持できず、空気欠乏で活動停止する五陰が私たり得ようか。気血を補充すれば行動可能だが、気血無き時は枯木の如く硬直する五陰、各種因縁条件に厳密に制約される五陰が私たり得ようか。このような不自在不自主の五陰身に何の貪愛すべき価値があろうか。

色身内の四大種子は刹那刹那に生滅変異し、体内の細胞は刹那に更新代謝する。短期間で細胞組織が完全更新され、血液は全て入れ替わり元の血液でなくなる。内臓器官も一定期間で全面更新され、全身の組織器官・筋肉腱組織等も全て更新変異し、最終的に骨格さえ全面更新される。全身が内から外、上から下まで全て変容し、もはや以前の身体ではない。故に我々の容貌は常に変化し、一定の年齢段階に至れば若年期とは著しく異なり、同一人物と判別困難となる。全ての人は幼少期と完全に異なり、大病を患った者は容貌も健康状態も全く変容し別人と見做される。このような身体がどうして自己であり他人たり得ようか。

かく詳細に思惟観行する時、智慧ある者はこのような身体を真実の自己と認めず、固執して「これが私」と執着貪愛することはない。多くの者はこの身体が全く制御不能であることを知りながら、何故注意力と精力を多少なりとも制御可能で、来世にも種子として貯蔵可能な精神的領域に転換せず、自らの般若智慧を高めようとしないのか。

十、阿頼耶識は識陰に属さない

仏は『雑阿含経』において、五陰十八界を衆生と呼び、この衆生は苦空無常であり真実の我ではないと説かれている。四聖諦の理を証得し五陰の苦空無常無我を証得すれば我見を断じ、一分解脱の功徳受用を得る。無我を証得するには、五陰の功徳作用を甚深禅定中に否定し、これを真実と見做さず我及び我の所有とせねばならず、かくして我見を断じ三悪道業を同時に消滅させる。

阿含経で説く識陰とは六識の機能作用を指し、生滅変異するもので阿頼耶識を指さない。識陰の「陰」とは遮蔽作用を意味し、七識心を遮蔽して六識の功徳のみを認め、全てが阿頼耶識の功徳作用であることを知らない。阿頼耶識は自心を遮蔽せず故に識陰に帰属しない。外道たちは不生不滅の自性清浄心の存在を知らず、識陰を真実の我と見做し真実の法身仏如来蔵阿頼耶識を認めないため、生死輪廻の苦を免れ得ない。

識陰自体に識別機能がある。識陰の受想行識機能を四陰と呼び、四陰に色陰を加えて五陰となる。色陰とは母胎から老死に至るまでの色身を指す。受陰は六塵境界の苦楽憂喜捨を感受する能力であり、七識心が真相を認識するのを遮蔽する。想陰は了別・取相・執取を指し、心上に相を取り名相概念を分別し執着を生起させる。これが七識心の実相認識を遮蔽する。行陰は「動」を意味し、不断の生滅変異流転造作が動即ち行であり、七識心の真理認識を遮蔽する。

要するに識陰は六識の機能作用であり、六識が生滅する以上識陰も必ず生滅する。阿頼耶識は不生不滅であり識陰に属さない。阿頼耶識も「識」と称されるが、その識別性は六識の識別性と完全に異なり混同してはならない。

十一、受を我とする表れ

各種我見の中で、受陰を我とする者が最も多い。多くの者が受陰を重視し、覚受の為に業を造り、面目の為に苦を受ける。識心の覚受の為に色身を苦しめる。歴史において名を残す為に死す者は数多存在し、名を千古に垂れると称される。義気の為に死に、面目の為に死に、虚栄の為に死に、名誉の為に死ぬ者…これら全て我見深重の者である。これらの者は識心を我とし、識心への執着は色身への執着よりも深刻である。我執が断尽した時、識心覚受への執着性も断尽するが、習気が偶に現起することはある。

衆生は受陰を我とし執着する故、内心の感受に因り貪愛と瞋恚を生起し、無量無辺の罪業を造る。受陰を我とせず執着せず、適意の感受に貪着せず、不適の感受を厭逆しなければ、貪愛と瞋恚を生起せず、悪業を造ることも自覚せずに済む。娑婆世界の衆生の最も顕著な特徴は貪欲瞋恚愚痴であり、欲界人間の普遍的煩悩は貪欲である。仏法を修学し因果を理解し貪欲が生死沈淪の禍根と知りながらも、業障深重の故に貪欲を降伏できず、在家出家を問わず一切の煩悩降伏は極めて困難である。無量劫の生死熏染の中で習気が根深く、揺るがすことは容易でない。

十二、定中の意識心も生滅法である

仏法中最も基礎的な小乗仏法は、苦集滅道の四聖諦の理に基づき、五陰の苦患を観察し、五陰苦の集諦を明らかにし、五陰苦の滅諦を知り、五陰苦を滅する道諦を修する。五陰の苦空無常無我性を逐一観行し、内心深く真に認可して初めて我見を断じ初果を証得し、三悪道の業を消滅させる。仏の教理に従い智慧をもって観行する中にも、戒律の修行と禅定の修行、及び福徳因縁を離れない。

観行において主に識陰の虚妄が観行困難である。特に意識心は極めて深細かつ広範で、意識心の機能作用を全て観行し逐一否定してその虚妄を証得することは容易でない。六識心の体性を深細に了知し、識心の全作用を禅定中に観行し尽くせば、我見を徹底的に断ずる確信が得られる。

意識心の境界は広範で、一般修行者は散乱・煩悩を生じる意識が生滅虚妄であることは理解し易いが、定に入り深細清浄となり妄想も念頭も無い状態でも、依然として生滅虚妄の意識であり真実の我でないことを知らない。これは意識の定境であり、不変の真心境界ではない。境界即ち法塵境であり、法塵境は意識心が分別する対象である。定境に入ったことを了知するこの「知」こそ意識心であり、生滅法であって真実の我ではない。定から出れば定境は消滅し念頭が再び生起する。このように変化生滅する法は虚妄法であり、真実の不変異法ではない。

六祖は「那伽は常に定中に在り、不定の時無し」と説いた。真実の心は永遠に定中に在り、出定も入定もなく増減変化しない。仏も『楞厳経』で「内に守って悠々としているのも、なお法塵を分別する影事である」と説かれた。仏は既に後世の衆生が真偽を識別し難く、特に末法の世において衆生の福徳薄く邪見熾盛で真偽を弁別できないことを予見され、『楞厳経』で特に注意を喚起された。定中の意識境界も虚妄であることを認識して初めて我見を断尽できる。定中の意識を不生不滅の真心と見做せば、大小乗の果位も証得できず、依然として生滅の識心を我とする凡夫に留まる。

十三、意識の生滅変異する運行に自主性無し

問:意識が法塵を了別した後滅するか。昼間法塵が不断に変化し生滅する中、睡眠無き場合、五倶意識と独頭意識が法塵に依り不断に転換するだけで、無夢睡眠時のみ滅するのか。

答:意識が一つの法塵を了別し、その内容を運行し終えれば、当該法塵上で消滅する。意根の指揮に従い、他の法塵上で出生し了別運行し、再び滅して別処で再生起する。意識はこのように意根の攀縁に従い不断に生滅し、毫も自主性無し。故に意識は極めて虚妄不実で、私及び我の所有では全くなく、このような意識を我と認めてはならない。

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