衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

五蘊の観行による我見の断ち(第一部)

作者: 釋生如 分類: 二乗の解脱 更新時間: 2025-02-25 閲覧回数: 3

第二節 我見断ちの特徴

真に我見を断じた者は、意根が無我を確認した後、更に深甚なる禅定を発起し、覚明が現前し、精神愉悦し、思惟細密となり、観法深細となる。日々の睡眠は三~五時間で足り、身心極めて軽安し疲労を感じず、却って精力充実し精神状態が極めて良好となる。これは意根が無我を親証し真理を認識し、心境が豁然と開け、身心に善境界が現れるためである。睡眠は意根が調節し、精神状態は意根が制御する。意根が旧来の不正認知を改めれば、身心状態もこれに伴い転変する。

意識のみが無我を認め、意根にその認知が無ければ、身心の一連の反応は引き起こされず、身心状態は変化せず、従前と変わりなく、解悟無我は此の如きである。故に我見を断ち初果を証得したと自認する者は、意識による我見断ちか、意根も同時に我見を断ったかを検証せねばならない。意根が我見を断って初めて三結を断除できる。三結は主に意根を束縛するものであり、意根の我見断ちは定慧等持の三昧中でのみ可能で、何れも欠くべからず。

現在多くの者が五蘊十八界の法を観行し、我見を断ち生死流転の問題を解決せんと試みている。然るに観行がある程度進み自ら我見を断ったと感じつつ確信持てず、或いは観行を理解せず禅定無く、書籍を読み無我の法義を理解しただけで我見を断ったと感じ確信できない者もいる。衆生の疑念を解決する為、簡潔に幾つかの特徴を列挙し参考に供する。我見を断った者には幾つかの特徴が存在し、彼の我見が真に断たれたことを示す。

一、我見断ちの特徴

第一の特徴:初めて無我を証得し我見を断った者は、内心に喜悦と軽安が生じる。五蘊無生の智慧を初めて獲得し四聖諦の真理を証得したため、意根が感動し喜悦軽安の現象が現れる。喜悦軽安の程度は修行の定力深浅と観行智慧の深浅により異なる。

第二の特徴:三昧の中に在り、煩悩極めて軽く世間法を念じない。故に我見断ち後は功徳受用有り、内心喜悦軽安により覚明現象が現れ、一時的に睡眠が極めて少なくとも精神状態良好で精力旺盛となる。この期間の長短は個人差有り、各人の定力如何による。定力優れる程精神状態良く、睡眠少なくとも精力充実する。

第三の特徴:定力が漸次増強する。我見断ちの観行は甚深禅定中に参究するもので、定中で五蘊究竟如何に我ならざるかを思惟し、色身の内外・大小・三世に亘り如何に非我・不異我なるかを観じ、種々の覚知心が究竟如何に我ならざるかを思惟する。この思考過程は意識と意根の認知過程であり、最終的に意根が真実を認可すれば、その内心に変化生じ、五蘊が真実の我ならざることを念々覚知し、五蘊身への攀縁が減り定力が増大する。

第四の特徴:煩悩軽微。五蘊虚妄非我を認可した直後は自我感覚が弱まり、暫時自我のために煩悩を生ぜず、覚明の出現・内心喜悦軽安・定力増加・定水の潤いにより煩悩が軽減される。但し此の時の煩悩軽微は二果のそれと異なり、初果証得時の煩悩軽微は不安定で、後日覚明禅悦消失・定力減退に伴い潜在煩悩が顕現する。

二果の煩悩軽微は安定不変の真実軽微である。初果時も煩悩軽微の現象有るが、二果より稍々重い。我見断ち証果直後は必ず煩悩軽微となる。何故なら此の時身体と心の感受が愉悦軽安喜悦となり、平常の内心覚受と異なり、喜悦の故に人を責めず心寛大なるが故である。

第五の特徴:内心がますます空になり、世俗に対しますます淡白になり、感受がますます微細となる。我見を断った者は自らの五蘊十八界が元来虚偽で空であり真実でなく、実際には真実の我たる五蘊十八界が存在せず、内から外まで全く不実で、空の殻に過ぎないと感じる。既然我がかくの如く不実である以上、外界の我に対する見方・評価・待遇も全て不実で、外界は真に我に接触できず、一切の境遇も真に我に加わることはできない。従って色身を気にせず、外界の評価を意に介さず、色身を漸次看破し、覚知心の感受も漸次看破し、感受が減少する。

同時に内心に空虚感が生じ、自我や各種感受を固執せず、自らを幾分か空却し、外界の一切人事物への反応が淡薄となる。特定の覚知心の感受を真実と見做し強く執着することはない。彼も覚知し感受し、時には苦楽憂喜捨の感受もあるが、決してこれを真実とは認めず空と感じる。色身に関しては、身体に痛みや不快を感じることもあるが、この感受が虚妄相であり身体自体も空幻であると知り、色身や各種感受を気にせず、感受も少なくなる。定力が優れる程、内心の空虚感は増大する。

以上、我見断ち直後の者の幾つかの特徴を大略述べた。完全性と詳細性を欠くが、これらの特徴は個人差が大きく、各人の禅定と智慧が異なるため表現も異なる。禅定無く無我を解悟した者のみは理論的知見を有するのみで、上記の特徴が無いか、一過性で数日も持続しない。禅定と観行智慧に優れた者は覚明期間と無煩悩期間が極めて長く、一年以上に及ぶ場合もあり、初禅定が現前し煩悩断絶の機会が訪れる。


過去世において数多くの劫を修め、すでに我見を断じた経験を持つ修行者は、この基準に照らして自らが我見を断じたか否かを確認し、その後の修行計画を立てることができる。過去世で仏法を学んだ期間が短く、修行の道程に不慣れで我見を断った経験がなく、善根が特に深くない者は、誤解による大妄語業を犯す危険があるため、我見を断じたと自己印可することを控えるべきである。大妄語業の果報は極めて重い。決して軽々しく「我見を断じた」あるいは「悟りを開き心を明らかにした」と判定し、外部に発言してはならない。

禅定に関しては、特に初禅以上の境地については、決して「私は初禅・二禅・四禅を証得した」「この禅定状態が初禅・二禅である」などと自己判断してはならない。禅定の本質を真に理解せず、明確な認識を持たない者が正確な判断を下すことは不可能である。過去世で証得した経験がなく、現世でも実践が乏しく、内心の貪欲を制御できない者が深遠な禅定を修得することはほぼ不可能である。経典の教え・理論・実証のいずれの面からも、特定の禅定を証得したと確定できない限り、深い禅定を得たと安易に発言してはならない。誤った発言は大妄語となり、その報いはやはり極めて深刻である。

特に明心見性に関しては、外部に結論を公言するだけでなく、内心においても安易に自己を認可すべきではない。必ず経験豊富な先達による印可を受け、確実に明心見性したと確認された後、仏経を逐一対照し、如来蔵の体性を説く密意の法義を正しく理解できるかどうかを検証しなければならない。明心見性後は多くの経典の一部が理解可能となるが、単に解釈できるだけでは真の明心とは言えず、意識による巧妙な解釈に過ぎない。真の明心は定慧等持の三昧において現れる証量であり、三昧がなければ単なる意識レベルの理解に留まる。

例え『楞伽経』の「如幻術神咒,機發像起。」という核心文句は、明心後にその意味を悟るべきものである。『維摩詰経』の「菩薩舉足下足,當知皆從道場來。」も同様に、明心後はその真意を把握できねばならない。ただし、表面的な理解と細部に至る観察を伴う理解には雲泥の差があり、脈絡を看破する通透した智慧こそが明心後の証悟を示すものである。

多くの仏経は第八識を証得した後でなければ、経文中の核心文句や第八識の真如体性を隠喩的に説いた箇所を明確かつ透徹して観察することができない。明心以前は漠然とした推測にとどまり、わずかに理解できる程度である。ただし明心後も全ての経論を理解できるわけではなく、第八識の総体的な体性や核心部分・表層的な記述については正しく把握できるべきである。

もし自身が長年の修行を積んだ大菩薩でもなく、再来の菩薩でもなく、経典を正しく解せず、時に自己流の解釈を「理解」と錯覚する場合は、明心開悟を自己印可せず、経験者による印可を受けるのが安全である。さらに経典との照合を重ね、多角的に検証した上で初めて確信を得るべきであり、さもなければ大妄語業の罪は極めて重い。最も確実なのは、定慧等持の三昧境地が現前しているか、禅定と智慧が具足し、煩悩が微細化され、覚明が生起し、智慧が止めどなく流注する状態を確認することである。この状態が具現していれば、明心の証悟は疑いない。

さらに明心を証した者であれば、浅易な公案については短時間の思索を経て一部を理解できるようになり、次第に差別智に関わる深遠な公案も徐々に把握可能となる。もし「明心開悟した」と称しながら、どの公案も曖昧な理解に留まり、全てが曖昧模糊とした状態であるならば、真の明心とは言えない。

真の明心と我見断ちには一定の禅定が伴わねばならない。未到地定がなければ、思惟は透徹せず、我見断ちは我性の一部を制圧するに留まり、根本的に断じ切れない。断ち切れぬ場合、未来にこの「我」が再び顕現し、常に自我が付き従う状態となる。これは初果向(預流向)に過ぎず、真の初果(預流果)の証得ではない。禅定がなければ五陰十八界の観行を透徹できず、内から外まで一切が空であると観じ得ない。もし真に自身の全体が空であると証得したなら、日中の内面の覚受は以前とは全く異なるはずである。この覚受は必須の証拠であり、観行が完成した徴候である。この徴候がなければ、観行が未熟であることを示す。

我見を断った後の期間は、過去と比べて心の働きが絶対的に転換し、全く異なる。全ての心行と表現、内面の思惟・観点・知見が以前とは変容し、内心の感覚は空々として「我」が存在せず、自身の色身や覚知心への執着が薄れ、自己を強く意識しなくなる。空への実感が深まり、行動にも変化が現れ、自己への執着や自慢話が消える。未到地定や心一境性の定力が不十分な場合、我見の一部しか断てず、理論的解析に偏って観行が浅ければ、我見全体を根絶できない可能性がある。

仏法の真の証得は全て禅定に依る。禅定なき者は実証を得られず、似たような理解に留まり、心に確信が持てない。禅定は実証的智慧を得る架け橋であり、禅定を欠いた仏法の分析的解釈は、せいぜい相似の理解に至るのみで、大智慧は決して生起せず、心行が真に変容せず、我相が残存する。戒定慧の三無漏学において禅定を欠けば、思惟は必ず粗雑で不徹底となる。この状態で「我見を断じた」と自認しても、初果向(預流向)に留まり、真の初果(預流果)に至らず、場合によっては初果向にも達しない。初果と初果向は一字違いだが、両者の差異は極めて大きい。

禅定は菩提を証得する絶対的かつ必須の条件であり、菩薩の六波羅蜜行の要件でもある。禅定を欠けば煩悩を制伏し難く、心性も転換し難く、観行が不可能となるため定は極めて重要である。煩悩の制伏と断除は完全に禅定に依存し、特に初禅定が生起すれば欲界の貪愛と瞋恚を断じ得る。初禅定がなければ貪愛は断ち切れず、瞋恚心も絶対に断絶できない。因縁に触れれば瞋恚が依然として顕現し、身口意において貪瞋痴が完全に表出され、他者に感知される状態が煩悩の顕現である。未到地定が不十分であれば、煩悩を抑圧することすら困難となる。

これらの基準をまとめた理由は、第一に一部の人々が切実に理解を求める状況にあること、第二に安易に自らが果位を証得したと宣言する大妄語を防ぐためである。止むを得ず提示したものの、極めて少数の我執深き者がこれらの特徴を逆用し、故意に大妄語を発する弊害が生じる可能性もある。しかし提示しなければ、誤って自らが我見を断じたと錯覚する者も現れ、これも大妄語となる。利害得失を秤量した結果、真摯な修行者の参考とするため、これらの特徴をまとめて公表せざるを得なかった。利が害を上回ることを期待するものである。

目次

次の記事

前の記事

ページのトップに戻る

ページのトップへ戻る