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五蘊の観行による我見の断ち(第一部)

作者: 釋生如 分類: 二乗の解脱 更新時間: 2025-02-25 閲覧回数: 39

第七章 我見断ちの功徳受用

第一節 我見断ち後の解脱功徳受用

一、繋縛と解脱の差異

我見を断じた後、色身の覚受は依然として存在するが、内心に倒錯見がなくなり、智慧が生起し、漸次解脱を得る能力を有する。真に我見を断じた後、自我への貪愛は軽減され、所有する色声香味触法を貪愛せず、逆境に遭遇しても従前の如き苦痛を感じない。我見を断じ五蘊を我と認めなくなれば、色身が如何なる状態でも無所謂となる。これが初歩的な解脱の覚受である。更に進んだ解脱受用がある。例へば阿羅漢が飲食を乞えず牛糞を食して飢えを凌ぐこと、墓場に寝ても無所謂と感じること、屍棄林の死体から拾った衣服を継ぎ接ぎしても無所謂と感じること。これが心の解脱・色声香味触法に執着せぬ解脱功徳受用である。

有謂あれば内心に繋縛有り、心は解脱せず。無所謂こそ真の解脱であり、身心が如何なる環境条件にあっても良しとするのが解脱・自在である。逆に如何なる状態も受け入れず、如何なる状況にも満足せぬのは生死の繋縛であり、解脱せず心が自在でない。自我への執着が強ければ強い程成就し難く、自我を貪愛する者は自らを厳しく繋縛する。

過去の修行者は深山に独居し、飲食住居用具全てが粗末であったが、彼らは無所謂であった。彼らは修道・道業成就を目的とし、色身の享受を求めなかったため、色身五蘊に執着しなかった。現代人の修行が遅滞し成就無きは、生活が過度に快適で貪着心が強く出離心が生起せず、道心が弱く禅定が生起し難く、観行が成就せず内心の思想観念が転換できないためである。我々が生死の大事を解決せんとするなら、四聖諦理を深細に思惟せねばならない。まず苦聖諦に対する深切な認知を有し、苦を知って初めて集を断ち、滅を慕いて初めて道を修し、最終的に心が解脱し自在を得るのである。

二、初果を証する功徳受用

大小乗の見道位は初果段階にあり、その智慧認知程度は一人の人物に出会い、その者を初歩的に理解した状態に喩えられる。ただし理解は未だ深透せず全面的でなく、未会見時の理解・認知とは全く異なる。その後この人物と交流する過程で漸次認識を深め、印象を強化し、言動を理解する。時を経て理解が深まれば信頼度も増大する。初果の証得と明心直後の状態も同様である。初果の見道は根本煩悩を断除していないが、総体的に煩悩は相当程度降伏軽減され、身心に転変が生じ、心性が凡夫と本質的に異なる。これが見道による無我証得の功徳受用である。

初果が根本煩悩を断じていないため煩悩断じた三果人と差異有るとの理由で、煩悩が凡夫同様であると看做すなら、誤謬甚だしく、多くの者を誤導し、一部の凡夫人に「煩悩深重は正常で初果人となる妨げにならない」と錯覚させる。実際、煩悩深重は異常である。煩悩が有効に降伏されていない場合、見道未達成・修行未奏功・身心未転変を示し、我見断絶不可能で真に無我の理を認識していない。この見解を抱く者の多くは自らの煩悩性を隠さず、当然の如く「自分は証果し我見を断った」と自認し、自らが称する果が真果か偽果かを疑わず、聖賢人を僭称する因果の恐ろしさを知らない。

初果見道後、縁に応じ境に対す中で漸次五蘊十八界無我の観行を深化させ、無我性が増強し、煩悩が再び降伏軽減すれば二果人となる。更に五蘊無我の認知を深化し五蓋を修除し初禅定を発起し、貪欲煩悩を漸次滅除し、続いて瞋恚煩悩も滅除すれば、貪欲瞋恚煩悩を断除した三果人となる。更に精進修持し五蘊無我の観行を深化させ、無我見地が深透し一切煩悩脱落し我執断尽すれば四果阿羅漢となる。

凡夫から四果に至る修道の過程は、人物の噂を聞き、会見し、完全に熟知する過程に類似する。会見直後即ち人物を極めて熟知することは不可能である。初果証得も同様で、見道直後は内心の無我程度が深透せず貪瞋痴煩悩を断除していないが、必ず我見断絶無我証得以前と差異有り、身心世界に変化有り、初歩的解脱功徳受用有り。初歩的解脱功徳無ければ真の我見断絶無く、真に見道し無我を証得していない。無我を証得すれば、我見に因る煩悩は必ず降伏する。

三、我見断ちの者の無我修為

大小乗を混合観察する時、六根六塵六識の観察を透徹せねばならない。六識は第八識が当下一念に顕現したもので、刹那刹那に生じ、刹那刹那に滅す。六根は第八識が顕現したもので、意根も刹那刹那に生滅し、五根も第八識が輸送した四大種子より生じ、刹那刹那に生滅する。六塵は第八識が輸送した四大種子で生成され、刹那刹那に生滅する。十八界は変化が極めて迅速なため、連続不断に変化無き如く見え、我々をして極めて真実と錯覚させ、識心を蔽い貪愛を生起させる。実際には一法として刹那生滅せざるものはない。

現在の私は既に先刻の我ではなく、身体細胞は生滅変化し、食物は体内を出入りし、色身も刹那に変化する。一定期間の生滅変化を観察できれば、色身の生滅無常を大凡了知できる。色身は十年前と比較すれば極めて明瞭な差異を感じ、身体の一切が大変貌し、心中の思考・認知も変化し、人間全体が入れ替わる。心を観行に融入させれば、仮我たる五蘊の虚妄・無常・生滅・空・幻化・非我を証得できる。

小乗四阿含を学び先ず我見を断ち、後に明心すれば、我見は容易に徹底的に断じられ、煩悩性障の降伏が速やかである。直接参禅して明心し、定力不足のまま理解成分が多ければ、証悟はほぼ不可能となり、我見は断じ得ず、この仮我は常に波乱を起こし煩悩業行を造作し、自らの道業を阻害する。自我を降伏させることは修行と自他利益に極めて重要である。一旦降伏すれば、自ら生生世世無限の利益を得、心に苦悩を生ぜず。

色身我見と識心我見を断じた者が多生を経た場合、決して自らの色身を気にせず、色身を過剰に世話せず、色身のために多大な代償を払わず、事に遭遇しても自己の利益得失を優先せず、他者や集団のために行動し、決して報酬を求めず、計算高く振舞わない。個人の利益のために他者と衝突せず、多くは謙譲的で無我性を有し、特に些細な利益には拘泥せず争わず、心境が寛大であるため他者も共に在ることを喜ぶ。

以上の観行を通じ、一旦五蘊無我を証得すれば最低初果人となり、煩悩軽微の者は直接二果を得る。既に初禅定を修得していれば貪愛と瞋心を漸次断除し三果を得る。各人の福德因縁・修行時劫が異なるため得る果位も異なる。利根者は法を聞き稍々思惟するのみで証果し、長時反復観行を経ず、全般的観行を完遂せずとも、一つの側面・一点からの思惟突破により五蘊全体が氷解し悉く突破される。以後は五蘊の化城に坐し、大いに夢中の事を為す。根性利ならずとも、日久功深により初果を証得し三結を断ち、永劫三悪道を絶つは大幸事である。これに費やす心血代償は全て価値有り。

四、我見断ち後は身心共に転変する

真に我見を断じた後、人は依然として元の人間であるが、心は既に元の心ではなく、心行に大転変が生じる。これが我見断ちの功徳受用である。真の我見断絶は人間全体を変化させ、従前の如く煩悩し貪り慢心し瞋る状態とは決してならず、元の心態ではあり得ない。心行が依然として以前と全く変化無ければ、それは理論上の我見断ちに過ぎず、真の我見断ちではない。

真に無我を証得すれば、身心世界は必ず変化する。理論上無我を知るのみでなく、実際行動が至る所で無我を顕現する。知見が倒錯から正転したため、理論的知見は実際の生死問題を解決できず、大した役に立たない。理論上我見断ちを自認しつつ実際には断じていない者は、更に深く禅定し如理観行を修め、欠落した三十七道品を補完せねばならない。真に切実に我見を断除し、身心世界に転変を生ぜしめ、以て実質的な功徳受用を得て、内心に解脱の影を宿す必要がある。

五、我見断ち時の覚明現象は意根より生ずる

我見断ち後に現れる覚明現象や身心に生じる各種の軽安喜悦現象は、全て意根の智慧触発によって生じる。意根の情緒が身心に反映されたものである。意識は身心に反応を起こさせず、軽安や喜悦の覚受を現出させ得ない。故に我見断ちは必ず意根が我見を断除し、意識の我見も同時に断除される。軽安喜悦覚明現象が現れず「五蘊無我」と考える場合は、意識による我見断ちであり、未だ意根の深層に達していない。意根が初めてこの理を認知した時、程度の差はあれ反抗的焦燥現象が現れる。前世の根基が良く五蘊を観行した者にはこれらの焦燥情緒がなく、反抗せず直接喜悦心境が現れる。

これが実修の結果である。実修の段階と過程を経なければ、真に我見を断じたとは言えない。真に我見を断じた後は、身心必ず転変し、心行必ず変化し、聖性必ず現れ、内心必ず空無我となる。如何にして尚甚大な煩悩や乱相が現れ得ようか?不可能である。内心が空になれば、余計な事柄を造作せず、無為と初歩的に相応する。何処に多くの乱事が発生し、況んや多くの悪行が現れ得ようか?根本的に不可能である。

禅定が不足すれば、観行は真に困難で法義の吸収理解が不十分となる。一部の深法や甚深法は更に理解信受できず、疑見が断たれず内心安穏ならず。

六、証果後も恐怖心は残るか

我見断ち後には一定の解脱功徳受用が有り、この解脱の功徳受用は各人の証量によって差異が生じる。解脱功徳とは色身・五蘊に対する心理的感覚や執着性が軽減淡化され、多くの事柄を看破し拘泥せず、特に禅定有る場合の執着は更に軽微となる。これは我見断ちの智慧と禅定の程度により、各人異なる。

しかし重大事態に遭遇すれば依然恐怖を感じ、後々考えればそれ程恐れなくなる。三・四果人は極めて軽微である。全く恐怖無きは不可能で、四果阿羅漢が仏陀の傍に在り酔象が突進して来た時、彼らも逃げる。我執を断った四果人も酔象を恐れる。何故か?彼らは如来蔵を証得せず、五蘊身を実有と見做し苦を実有と考えるためである。ただしこれらは生滅変異し把握できぬのみで、五蘊虚妄が如来蔵の幻化である理を証得していない。故に依然恐怖心を有する。倶解脱の阿羅漢は甚深なる禅定を有するため恐怖心無く比較的安穏自在である。

八地菩薩は微塵の恐怖心も無く、四地菩薩は智慧証量に神通を加え恐怖心無し。四地以上の菩薩は我執を断つだけでなく法執の一部も断ち、甚深如来蔵を証得し四禅八定を有し、一切法が幻化相で実有でなく五蘊身が空幻であることを証得する。故に如何なる法に対しても恐怖心を生ぜず。小乗の阿羅漢は如来蔵を証得せず、五蘊が世間に機能作用を有すると考え、涅槃に入り苦を避ける。小乗の証果と大乗の証果は次元が大きく異なり、小乗の証得法は不究竟で、大乗法こそが心源を徹見する究竟の法である。故に我見断ちの初果人は重大事に恐怖を感じる場合が有る。色身への執着が残り断絶が不徹底で、法執の問題も残存するためである。

七、証果後の果報

五蘊無我を証得し三結を断除した時、三悪道業は自らを繋縛できず、重罪軽報となり、過去生に造作した三悪道業行の為に三悪道で苦報を受けることなく、それらの三悪道業の果報は人間界で現行し人中で受苦する。極めて稀に煩悩極めて重き者が新たに三悪道業を造作すれば、再び三悪道で果報を受ける免れず、証得した果位(大乗果位を含む)も失う。

煩悩断除後、三果に近き四果の地上菩薩となる者は、大小乗の智慧証量により証得した空法が初果人や賢位菩薩より更に深細広大で、心は更に空浄となり、三悪道業が更に多く消除され、三悪道で報を受ける必要無く、人中で受ける苦も更に少ない。更に煩悩を断じた為、仏法への貪愛のみ残り、煩悩に因る三悪道業を造作せず、故に地獄に堕ちない。

但し例外的に、法への貪り(法貪)・法執・愚痴に因り大悪業を造作し、菩薩の果位を悉く失い人中で極大なる悪報を受ける場合がある。仏法中に世尊の教導に背き、如来や仏教を損なう悪業を造作すれば、其三賢十地の菩薩果位も悉く失われる。

八、無我の覚受

静心して思惟すれば、色身を淡く観じ、色身と疎遠となり、遂には色身を我と認めなくなり、内心に変化が生じる。その時思う:何故苦労して終日身体の為に奔走し、究竟何を求めるのか?世間で争い合い、究竟何を得られるのか?終日我我とし、究竟何の為か?何が我か?生生世世色身の為に、色身は一塊の木の如く、一つの臭皮囊に過ぎず、覚知心の為に、覚知心はかくの如く幻化不実である。故に身心の為に悪業を造作するは得失に合わず。

修行には真に心を静めて内観思惟し、自らを照り返し、反復自問せねばならない:一生涯究竟何を求め、何を得んとし、又何を得られるのか?最期まで生きれば空と空に過ぎず、空以外に何が残るか?心を静めて思惟しなければ、心行は変化せず、口では説きつつ行動は変わらず、自ら毫も利益を得ず、単に他人の前で口先を弄ぶのみ。終日我慢絶えず「我は誰より優れ、誰よりも能く、誰も我に及ばず、我以外に存在無し」と思う。これが生死輪廻の根源である。

真に自らの存在を感知し得なくなった時、内心に空虚感が生じ、従来依存してきたものが突然無くなり、最早自らの頼りにならぬことに、一時的には適応できないが、時を経て慣れれば良し。内心に我が無くなれば、心が軽く感じ、心が休息を得、重荷を下ろし肩の荷が下りた如く、以後禅定が漸次増強する。

我が存在する時、内心は如何に重く、この我の為に奔走し業を造り、終わり無く、何時終わるか知れぬ。我有る時は全てを気にし、名利を争い、自らを売り込み、全ての人に注目され、重視され、羨望され、崇拝され、神の如く見做されることを望む。その心の重苦しさ如何ばかりか!

九、二三四果の解脱功徳受用

五蘊の無常性・苦性・空性・無我性を観行し、凡夫段階から阿羅漢果を証得するまで修め、三界の貪愛を断尽すれば観行は終了する。この時既に無学に達し、煩悩断ち・生死出離に関する修行には更に学ぶべき証すべきことが無くなる。三果以前には尚学ぶべき証すべき小乗法が残り、三界出離解脱の域に達せず、観行を継続修学する必要がある。四果に至って初めて小乗の無学となり、解脱法に関し学ぶべきこと無く、全てを通达し生死輪廻苦を解脱し無余涅槃に入る能力を有する。

五蘊非我を観行し初果を証得後、更に観行を深化させれば貪瞋痴煩悩が軽減し極めて微細となる。これが二果人である。更に観行を続け五蓋を降伏し初禅定が現前すれば、欲界の貪愛を先ず断じ、次いで瞋恚も断尽し三果人となる。心は欲界より解脱する。我慢断尽・我執断尽・三界貪愛断尽すれば四果無学となる。ここに小乗修行は終了し、三界との縁尽きる時命終して無余涅槃に入り、三界生死苦より解脱し再び三界に受生せず。

心解脱を得た者は世間の五欲六塵に束縛されず、五欲六塵中に在りて自在で、貪愛憎厭無く喜楽苦悩無く、心は塵労煩悩に染着せず自我五蘊に執着しない。この境地に至るには最少三果の境界を要し、更に意根の自我執着性を断尽すれば四果阿羅漢となる。三果人は初禅定を有し貪欲心断尽・五蘊貪愛断つが、色界無色界法への貪は未断尽で意根の執着性残存する。故に以身作証し「完全解脱・三界出離」を宣言できず。四果阿羅漢は我執断尽により完全解脱を証明し、世間の如何なる法も自らを束縛せず、心は一切法に執着せず、五蘊を滅し三界を出離し後有を受けぬ能力を有する。

十、仏法修証の目的は何か?

初果人は大なる煩悩を降伏し、殺盗淫妄を造作せず、但し小なる煩悩は依然存在する。凡夫と比べ心性は無我となり、煩悩は軽微化し有効に降伏される。凡夫も修証過程において修行が奏功すれば、煩悩は漸次降伏され、未修証前と異なる。初歩的に我見を断じた者は、自我に関わる煩悩が激減し、畢竟初歩的我見が無くなる。無我の程度・心性降伏の程度・解脱功徳受用は異なるが、何れも受用有り部分的解脱を得る。

仏法の一切の修証は、無明断除を目的とする。無明有れば種々の煩悩有り、証果明心は最終的に煩悩問題を解決する。無明無ければ煩悩無く、如何なる程度の無明を消除すれば如何なる程度の煩悩を降伏或いは断除できる。我見断ちの初果が無明煩悩降伏と連動しなければ、我見断ちと明心は何の意義有るか?理論知識の獲得だけで良いのか?理論知識学習の目的は何か?無明煩悩断除の為でないのか?何故解脱せず生死苦有るのか?煩悩無明有るからではないか?仏を学ぶ根本目的を見失い、既に混迷しているのではないか?現在我々が仏でない原因は何か?種々の無明と異なる層次の煩悩有るからではないか?

証果による煩悩断除は、大樹の根を断ち切る如し。根を完全断切すれば四果に相当する。根の完全断切前、根は徐々に切断される。初果証得は根の切断開始と一小部分(三結)の断除に相当。二果は更に大部分を断除し貪瞋痴が極めて淡薄となる。三果は貪欲瞋恚を断除し、根の大部分を断ち切り大樹が倒壊寸前となる。四果は根を完全断切り、無余涅槃に随時入り得る状態に相当する。

十一、実証は意根が三昧に在る証である

居眠り中に轟音を聞き、突然「音を聞く時は耳識が先に了別し意識が後に了別する」と悟った場合、これが実証に属するか否かは具体的状況による。轟音を聞いた際、意根がその中に定まり、耳識と意識の了別次第を整理し、明瞭分明に意識の分析思惟無く、意根が現量了別し疑惑無き状態ならば、意根の実証である。各人の智慧異なるため、必要とする実証条件も異なる。ある者は一つの証拠・一つの事例で足り、ある者は全ての証拠を与えられ、幾多の実例を目撃しても確定できず実証不能である。

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