衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

五蘊の観行による我見の断ち(第一部)

作者: 釋生如 分類: 二乗の解脱 更新時間: 2025-02-25 閲覧回数: 2946

第四節 観行は煩悩を降伏する過程でもある

一、衆生の六塵への貪求は如何にして生起するか

世尊は『雑阿含経』において説かれた:眼界を縁として眼触が生じ、眼触を縁として眼想が生じ、眼想を縁として眼欲が生じ、眼欲を縁として眼覚が生じ、眼覚を縁として眼熱が生じ、眼熱を縁として眼求が生ず。即ち衆生は眼根が色塵に触れて眼識を出生し、眼識出生後色塵を了別し、了別後再び了別を欲し、愛楽と貪愛により貪心が生起する。心が熱燥動き色塵を把捉せんと欲し、貪欲が完全に顕現する。修行無き者は自らの心念・貪欲を制止せず呵責せず、業行を造作するまで放置する。

修行有る者は中間の連鎖において自らを警覚し停止させ、以降の進行を断つ。阿羅漢は三界への貪愛を断じ、心散乱攀縁せず。眼根が色塵に触れた後、分別感受を続行せず視線を逸らし接触を絶つ。これにより内心清浄を保持し、熱燥熱悩を生ぜず貪求の念も起きず、後世相続の生死種子を断除し輪廻を絶つ。衆生は逆に自らの心念に随順し貪求を止めず、呵責を知らぬ故に業行断絶せず生死無期・苦悩不断となる。他根においても同様に貪心に随順し生死輪廻に流転し苦海を出離できぬ。

二、漸次に修することで心性と品性を高揚させる

『瑜伽師地論』は凡夫の地から四種の聖人地への漸修過程を説く。最初の声聞地の解説は極めて詳細で、瑜伽師の修証過程は急速でなく漸進的である。これにより漸次に禅定を獲得し、貪瞋痴を降伏させ、各種煩悩心行を改変する。その後初めて我見を断ち無我を証得し、聖賢人の品格を具え聖賢人の事業を行える。初果を証得しても貪瞋痴極めて重く悪事を働く悪人ではあり得ぬ。

漸修により漸次に煩悩を降伏させ、心性の品質を高揚させ、人格と菩薩格を漸次具足する。速成の解悟や最終答案の即得には何の功徳も無く、煩悩降伏の機を失い心性品性の向上不可。結果は名声のみで実質無く、損得勘定に合わぬ。恰も炊飯や薬の煎じ方のように、急火と弱火では味も栄養価も全く異なる。速成を求めるのは深刻な功利心であり、求める心・得んとする心、世俗心生死心である。無我の心・無為の心・解脱の心・無求の清浄心を生ぜず、往々にして逆行し逆効果となる。

煩悩を降伏し心性を高揚し聖賢人の品格を育むには、四念処観より始め、各種止観より始めねばならない。止観の道は長遠にして急速でない。全方向全角度から観行し止を修し自心を降伏させることで、漸次に凡夫の殻を脱し聖賢の骨格を具え、内より外まで刷新され真の聖賢人となり衆生の導師となる。自ら泥沼より足を抜き出して初めて、有縁の衆生を泥沼より引き上げ得る。自ら泥沼より脱出不能の者が、如何にして他者を救済できようか。

三、煩悩を降伏することは聖性と相応する過程である

仏は一切の仏法を一仏乗の法と説かれた。二も三も無し。声聞地の修証は一乗法の一部であり、最も基礎的かつ極めて重要な部分である。此の中の修行は煩悩を降伏断除し、漸次に聖性仏性と相応する過程であり、不可欠である。此の基礎を固めず高層建築を建てんとすれば、空中楼閣となり早晩崩壊する。故に一切の菩薩の修行は堅実に基盤を固め、戒定慧の修行を重視し貪瞋痴を消滅させるべく努めねばならない。空理空論を唱えつつ自らを正修実修と称するは不可である。

煩悩性障は禅定を障げ、智慧も障げ、智慧光明の生起を遮蔽する。壁が光明を遮る如し。煩悩を除去し障礙無くして初めて六七識が識転じて智となり、智慧広大無礙となる。煩悩習気重く心量狭き者は深細なる仏法を観察できず、表面を漂うのみで深入り不可。七識は煩悩習気に束縛され、一つの我に固執し突破できず、見る一切に我性を帯び智慧狭隘となる。無我の智慧こそ広大なることを知るべし。故に我々は常に自心に我性有りや、不公平性有りやを観察し、我性・利己性を発見すれば調伏策を講じねばならない。これらは仏心と一致せず必ず道を障げる。我性と道の関係は牛の毛と牛の如く、毛を除去して初めて牛を得る。

四、常に自我を観察し降伏して初めて聖人に近づく

我見を早く断ちたいなら、平常より自我の意識を薄め、自らの思想が悉く「我」であるか観察すべし。自我意識が強く現れた時は覚悟し、或いは自らを呵責し、自我に従順になり過ぎぬよう注意せよ。挫折を経験した時こそ自我を観察し降伏させる好機である。「我」有るが故に挫折を感じるのであり、我を克服すれば挫折感は薄れ消滅する。これが我見断ちに大いに資する。

集団の中や独りでいる時、自己の存在感を弱め、自らを過度に気にかけ過ぎず、重大視し過ぎぬよう。強がり勝ちたがらず、何事も第一を求めず。自己も相手も集団も真実存在せず、第一第二も最善最悪も無く、全て仮の名相である。常に「私は全てに勝たねば」「必ず注目を集めねば」と考えるのは我性の顕著な現れで、我見を断てず聖人足り得ぬ。聖人の心は空無為であり、此の如き心性ではない。自己を突出させようとすればする程、心性は人後に落ち、無為と相応せず聖人足り得ない。聖人の誕生は正に其の逆で、自我存在感無く有為の事を行いながら心は無為、大衆の為に一心となる者こそ聖人たる資格を具える。

五、修行が意根に深く入って初めて煩悩を根こそぎ取り除ける

仏法を学び修行しても、意根が薫習されなければ身心世界は転換せず、仏法の真実受用を得られない。身心世界は意根が主宰し制御するからである。意根が無我を証得すれば身心への統制を緩め、身心が転換し軽安無礙となる。これが仏法修行の一大秘訣である。皆よく体得すべし。仏法学習は口頭禅に留まらず、必ず意根の内心世界に深入りし、真に真に自己を変え、貪瞋痴煩悩を根底から除去して初めて徹底的転換が可能となり速やかに成就する。

多くの者は仏法を多く学び長期に渡るも、真の受用得たか?内心世界に変化有りや?自我への覚受と執着に弛緩生じたか?常に自らを内省して初めて不断に進歩できる。自ら内省力無き者は監督者を求め、折に触れ自らを戒め覚醒させれば修行も速やかとなる。

多くの者は内心を省みず、他者からの戒めを望まぬ。これこそ意根が自我に固執し過保護となり、我執が根深く仏法学習が非力となる証左である。修行とは不断に自らと拮抗し、自己を変革して初めて道業が増進する。他者と争うは大なる誤りである。

六、煩悩は段階的に断除される

我見を断ち初禅定を証得した後、先ず貪欲を断じ、次に瞋恚を断ず。瞋恚心は断除困難であり、貪欲心を断った後、瞋恚を断つに要する期間は個人差が大きい。当人の瞋恚心の固着度に依る。或る者は貪欲心淡泊ながら瞋恚心甚だ重く、常に人事の葛藤が絶えず、瞋心断除は困難となる。瞋心断尽せずしては声聞三果を証得できぬ。瞋心重き者は初禅を得るも難しく、内心の葛藤が禅定生起を障礙する。一生で声聞三果を証得し初地に入る望みは極めて稀薄である。

然し未だ我見を断たぬ者は、初禅以上の禅定を得ても依然として凡夫である。色界天人ですら欲界の貪欲現行は無いが、内心に瞋と愚痴の現行が残る。欲界は主に貪欲を本質とし、色界は貪欲を降伏するも瞋と愚痴が残存し、無色界は愚痴を主とする。無色界天人は禅定に依って解脱を得られ、自らの住む定境が涅槃境界と誤認する。彼らは解脱の知見を具えず、故に修得した定は邪定となる。智慧と相応せぬ定、解脱を得られぬ定は邪定である。故に無色界天人は愚痴を断たず、三界の生死輪廻を出離できず解脱を得ない。

七、我見を断った後の修定は魔道に入り難い

衆生は我見有るが故に我執を有する。心中に我有るが故に我を執着する。故に仏法修行の要諦は先ず我見を断ち、次に我執を断つことである。我見未断では我執断除不可。これが修行の次第で順序逆転不可。衆生は五蘊を真実の自己或いは自己の所有と誤認するが故に五蘊仮我に執着する。五蘊が確かに非我と知って初めて漸次我執を断除できる。意根の我執を断てば五蘊を滅却する能力を得、五蘊を保有し続けず三界世間で苦を受けることを望まず、命終時に五蘊を滅却し無余涅槃に入り生死輪回の苦から解脱する。

世尊は『阿含経』において、五蘊十八界と三界世間の万法が悉く苦空無常無我であると教える。衆生が此の理を証得すれば五蘊と諸境界に束縛されず、修定時に禅定が速やかに深入し初禅定が容易に生起し、魔境に陥り誤謬を生じ難い。世尊は大乗経典において「万法唯心造、心外無法」と説かれた。衆生が此の理を明得して修定すれば諸境界を真実と執着せず、魔道に入ることも無い。

外道の修行は境界の虚妄を解せず、境界に執着攀縁し有為法を追求し、覚受を愛楽し境界を貪求する。心が境界に拘禁され解脱不可、生死輪回を出離不能。心外に法を求むるは外道なり。外道は永遠に生死輪回を出離できぬ。仏法においては心外に物無く境界虚妄と説く。仏法を学ぶ者は心を修め物を求めず、五蘊身の不老長生等の虚妄法を求めず、三界世間の有為法を貪求せず、かくして無上菩提を成就する。

八、煩悩を段階的に断除して初めて解脱と相応する

五蘊無我を観行する時、色身空無我を証得するのは心の知見と観念が転換し、色身を我や我所と見做さなくなることを指す。然し覚受は依然存在し、甚深禅定において識心を滅却して初めて覚受を滅除できる。禅定の支え無くしては覚受は存続する。心が空であればあるほど覚受は軽減し、心が執着しなければするほど軽微となる。

我見断除と明心見性は、元の知見を転換するに過ぎぬ。知見の転換は極めて重大な事柄であり、此の転換により後続の無明と煩悩が漸次断除され、生死の問題が解決され小解脱と大解脱を得る。但し五蘊の一切の活動は依然存在し、只執着せず覚受軽微で、正しく覚受を把握認識し、安易に覚受の為に悪業を造作しない。

所謂輪廻とは主に心が生死輪廻に沈浸し苦を受け、心が解脱せざることを指す。心が解脱すれば、六道に衆生と混在するも其の生死苦受無く、六道輪廻の苦報を受けず。故に菩薩は三界を出離する能力有りながら敢えて出ず、六道において衆生を済度し、六道の生死輪廻に属さない。

九、如何にして諸根を修し自心の煩悩を調伏するか

『雑阿含経』巻十一原文:外道の弟子ウッタラが世尊を訪ね言う。「我が師パラシャーナは『諸根を修するとは、眼は色を見ず、耳は声を聞かぬことをいう』と説きます」。世尊は言われた。「もし然らば、盲人は諸根を修したと言えるか」。阿難がウッタラに問う。「聾者は諸根を修したと言えるか」。ここを縁として世尊は弟子たちに、外道とは異なる無上の修根法を説かれた。

釈:外道の弟子ウッタラが世尊に申し上げた:「私の師パラシャーナは『諸根を修するとは眼で色を見ず、耳で声を聞かぬことである』と説きます」。世尊は言われた:「もしこれを以て諸根を修するというなら、盲人は諸根を修したと言えるのか?」阿難がウッタラに問う:「聾者は諸根を修したと言えるのか?」ここにおいて世尊は此の因縁を以て、弟子たちに外道とは異なる修根法を説かれた。

原文:世尊說。緣眼色生眼識。見可意色。修厭離。不可意色。修不厭離。可意不可意。可不可意。修厭不厭俱離捨心。住正念正智。心善調伏。善關閉。善守護。善攝持。善修習。是則於眼色。無上修根。耳鼻舌身意諸根。也如是修習。

釈:世尊は説かれた。眼根と色塵を縁として眼識が生じ、眼識が好ましい色塵を見る時は厭離心を修し色塵に貪着せず。好ましからぬ色塵を見る時は不厭離心を修す。好悪無く意に適うとも適わぬとも言えぬ色塵を見る時は、厭離と不厭離を共に捨てた捨心を修し、心着かず正念正智に住す。善く心を調伏し、善く心を閉じ、善く心を守護し、善く心を摂持し、善く心を修習す。これが眼で色を見る際の最善の修根法であり、耳鼻舌身意の諸根も同様に修すべし。

以上が世尊が弟子に煩悩を除去する修心法を教示された内容である。まず好ましい色相を見る時、心に喜楽を生ぜず厭離を起こす。好ましからぬ色を見る時、心に厭悪を生ぜぬ。これが初歩の調心である。更に進んだ調心は、一切の色相を見る時、好悪を問わず心に喜楽も厭悪も生じず、捨てる心境に住し、内心でこれらの色相に反応せぬ。これが適切な心構えであり智慧ある作法である。

色相に対し善く心を調伏・守護・把持・閉じ、心を外に攀縁流溢させぬ。耳で声を聞き、鼻で香を嗅ぎ、舌で味を嘗め、身で触を覚え、意根で法塵に触れる時も同様に、善く心を調伏・守護・把持・閉じ、心を外に攀縁流溢させぬ。永く続ければ心は寂静を得、定力が漸次深入し、仏法参究が深細となり速やかに道果を証得する。修行とは眼で色を見ず耳で声を聞かぬことではなく、六根が六塵に触れる際に心を調伏し、境縁に遇う時善く心を摂持することである。境縁無き時は心を調伏できぬ。野馬を郊外で調教する如く、修行者は境から逃れず境中で心を鍛え修め、境の試練を受けねばならぬ。将来如何なる境遇に遇おうとも関門を突破し、心寂止して境に着かぬ境地を得る。

十、享受を貪らぬ者は我見を断ち易い

現代人が退屈で味気ないと感じる生活は、実は心を養うものである。簡素な生活は身見我見を断ち易く、其の様な生活は貪着を生じ難く、心が単純清浄で色身を重視せず、身見を断ち易く我性も軽微で我見を断ち易い。更に其の様な生活は福報を浪費せず、福徳の支え有りて道業の進歩が速やかである。

真の菩薩は自らの福徳を大切にし、安易に消耗せず、故に享受を求めない。菩薩が此の世に出生する際、往々にして富貴の家を選ばず、幼少期に福徳が親により空費されるのを避ける。現代人は此等の福徳に関する事柄を理解せず無頓着で、知らぬ間に享受を通じ福徳を消耗する。甚だ惜しいことながら自覚無く栄華富貴を誇りとする。親は子に対し責任を持ち、安易に子の福報を代行消耗すべからず。幼少期に福報を消耗すれば、成長後福薄く苦受多く諸事順調ならず。仏法修学時に道業に用いる福徳不足なら、道業成就困難となる。

過去の時代は消費財が豊富でなく生活が簡素で、色声香味触に染まり難く、色身の保養も少なく思想単純で身見断ち易かった。富貴の修道は難しく貪習甚だ重く、貧窮の布施は難しく福薄し。故に修道は一点一滴より始め、小を積み大とし少を積み多とし、良好な修行習慣を養成すれば、道を了ぜぬ憂い無し。

目次

次の記事

前の記事

ページのトップに戻る

ページのトップへ戻る